中村川は元町と山下町を分けるためにできたって本当?
ココがキニナル!
元町と中華街の間を流れる中村川は自然の川?それとも人工的な川?この川は元町付近で堀川と呼ばれます。地元民の話では明治時代に外国人居留地の出入りを制限するためのお堀の名残とも聞きます。(カズカズさん)
はまれぽ調査結果!
中村川は1667年の吉田新田埋め立てによって造られた人工的な川。堀川は1860年に外国人居留地と日本人町の間に関門を作るために掘られた。
ライター:橘 アリー
吉田新田の埋め立てで造られた!?
横浜市の南区から中区へと流れている中村川。「元祖石川町」の記事では、石川町の大元の名前の由来と推測されていた。中村川は、JR石川町駅近辺以外は、上に首都高速道路が通っている。そのためか、暗く地味なイメージの川である。
中村川の位置を地図で確認すると
赤線が中村川
緑線が中村川とつながっている堀川、紫線が大岡川。
投稿にあった中村川は自然の川なのか否かについて、中村川の歴史を辿っていくと・・・
まず、中村川が流れる南区と中区の地域は、江戸時代に埋め立てられて造られた街で、それ以前は、釣鐘の形をした大きな入海(いりうみ)だった。
現在の地図で確認すると、オレンジ色網掛け部分が入海だった
黄色の辺りに、象の鼻と呼ばれた細長い砂州(さす、洲干島〈しゅうかんじま、宗閑嶋とも書く〉)があり、その先は海だった。
埋め立て前の絵図(『南吉田町内会掲示板』資料より)
黄色の枠内が洲干島。
ちなみに、この絵図は洲干島が下にくるように描かれているが、上の地図と比べて分かりやすいように横向きにしている。
埋め立て前の入海のイメージ画(『南吉田町内会掲示板』資料より)
そして、1656(明暦2)年に、当時江戸の材木商人であった吉田勘兵衛によって埋め立てが始められた。
翌1657(明暦3)年、工事は一旦中止となるが再開。1667(寛文7)年に埋め立てが完了して入海に吉田新田が造られた。その際、入海に流れ込んでいた大岡川を2つに分流。その一つが中村川となった。
このように、中村川は、入海の埋め立てで造られた新田に両側から水が引けるようにと、大岡川から分流して造られた人工の川(運河)である。
大岡川に架かる南区蒔田公園橋。この橋を過ぎたところから分流する
地図でみると、赤丸が分流地点
蒔田公園橋から見た分流地点。左が大岡川で右が中村川
中村川は高速道路の下をひっそりと流れ
池下橋の辺りで、右へ堀割川が分流し
地図でみると、青丸が堀割川との分流地点。堀割川は赤矢印方向へ流れている
中村町(右側)沿いを流れ
石川町駅近辺のみ高速道路の下から外れる
元町商店街入口のすぐ側にある前田橋までが、中村川だ。
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続いて、堀川について調べてみる。