中村川は元町と山下町を分けるためにできたって本当?
ココがキニナル!
元町と中華街の間を流れる中村川は自然の川?それとも人工的な川?この川は元町付近で堀川と呼ばれます。地元民の話では明治時代に外国人居留地の出入りを制限するためのお堀の名残とも聞きます。(カズカズさん)
はまれぽ調査結果!
中村川は1667年の吉田新田埋め立てによって造られた人工的な川。堀川は1860年に外国人居留地と日本人町の間に関門を作るために掘られた。
ライター:橘 アリー
出入りを制限するために掘られた!?
堀川は、キニナル投稿にあるように、外国人居留地と日本人が住む街を分けるためのものだった。『川の町・横浜』などの資料によると外国人居留民を守るために掘られた川であった。
1859(安政6)年、横浜が開港して、多くの外国人が横浜に移り住むようになる。彼らの居住地として山手と山下町に外国人居留地が作られた。
当時、山下町居留地(現在の中華街近辺)と日本人が住む元町とは陸続きだった。
1858(安政5)年の開港直前の横浜。赤線が堀川が造られたところ(『図説 横浜の歴史』より)
堀川に面した現在の中華街の様子
外国人居留地が発展していく中、日本国内で江戸時代末期から攘夷運動(じょういうんどう:外国人を排斥しようとする運動)が高まり、外国人と日本人とのいざこざや、外国人殺傷事件が起こるようになってきた。
元町ストリート。現在の様子からは日本人と外国人のもめごとがあったとは想像つかない
そこで、外国人の出入りを制限しようと1860(万延元)年に居留地と元町の間に川を造り、3ヶ所に橋を架けた。それぞれの橋に関門を置き、居留地と元町間の出入りを監視するようになった。
明治時代後期の堀川に架かる谷戸橋(『谷戸橋のたもとの旧ヘボン邸』絵葉書)
赤丸が当時架けられた橋(『1922(大正11)年の横浜市地図』)
上記写真は、1922(大正11)の地図になるが、橋は左から「西の橋」「前田橋」「谷戸橋」で現在まで何度か改修工事が行われている。
1860年の堀川完成後は、 1871(明治4)年に、日本政府と外国側との取り決めにより、水深4フィート(約1.2メートル)以上、幅120フィート(約36メートル)以上になるように、拡幅工事が行われた。
最後に、投稿にあった堀川が造られた由来について、地元民(元町)の間では「外国人居留民の出入りを制限するため」とあったので、元町と山下町が地元の11人の方に由来をご存じか話を伺った。
40代~60代後半の方に伺ったところ、その方々はご存じでは無く、もっと年上の人や歴史に詳しい人は知っているかも知れないが、地元でも一般的には知らない人が多いとのことだった。
では、現在の堀川の様子は・・・
堀川
元町(右)と中華街の間を静かに流れ
山下橋の下を通って
横浜港へ流れて行く
取材を終えて
中村川も堀川も人口の運河だった。
両方とも、首都高速道路の下を流れていて陰になり、ちょっと暗い雰囲気の川であるが、心なしか、堀川の方が明るく感じられた。
すると・・・
堀川に架かる前田橋の近くに
堀川筋の高速道路の高架橋が、「田中賞」を受賞しているというプレートがあった
「田中賞」とは、地域環境と調和し景観に優れた高架橋に与えられる賞であるそうだ。
“地域環境と調和して景観が優れている”
高速道路の下で陰になっているが、それでも明るさを感じたのは、そのためだろうか。
―終わり―
参考文献
『図説・横浜の歴史』
『中区史』
『川の町・横浜』
yuuhodouさん
2018年03月23日 09時09分
良く書けていると思います。ただ、1ページ最後のほうに「元町商店街の入り口のすぐ側にある前田橋までが、中村川だ。」と書かれていますが前田橋ではなく西の橋ですね。
マッサンさん
2016年03月19日 01時04分
昔は曳船(ひきぶね)やポンポン船が中村川に多く係留されていました。記事の写真を見るかぎりではスッキリとしていて昔の面影はありませんね。子どもながらにココは海に近いんだなと思ったものです。
タラちゃんぷるーさん
2016年03月17日 11時08分
昔の地形を解説している記事はとても興味深いです。現在は馴染んでいても、計画的に人工で作られたものって意外と少なくないことを改めて感じました。