【横浜の名建築】三溪園の重要文化財 茶室『春草廬』
ココがキニナル!
横浜にある数多くの名建築を詳しくレポートするこのシリーズ。第12回は、三溪園にある重要文化財『春草廬』。信長の弟で、利休の弟子だった有楽斎が作った、9つもの窓を持つ茶室は、穏やかに美しい異世界だった。
ライター:吉澤 由美子
三溪園の内苑奥にひっそりと建つ茶室、『春草廬(しゅんそうろ)』。
屋根の高い右の部分は、後から付け加えられた水屋と広間。屋根の低い部分が重要文化財の茶室
園内の建物の多くと同じように、この茶室も移築されたもの。桃山時代に京都は伏見城に建てられ、その後、旧三室戸寺金蔵院(みむろとじこんぞういん)に移され、大正7年に三溪園に移築された。
9つの窓があることから、三室戸寺金蔵院にあった頃は『九窓亭(くそうてい)』と呼ばれていた。
信長の弟であり、利休の高弟だった有楽斎が作った茶室
この茶室を建てたのは織田信長の弟、織田有楽斎(おだうらくさい)と伝わっている。
有楽斎は利休十哲(りきゅうじってつ)のひとりとされる茶人だ。
有楽斎という名は後世に呼ばれるようになったもの。当時の名は織田長益(おだながます)。
信長が暗殺された本能寺の変以後は豊臣秀吉に仕え、関ケ原では徳川家康につき、大阪冬の陣では和議交渉をまとめ、豊臣家滅亡となる夏の陣前に大阪を離れ、京都で茶道に専念する隠居生活を送った。
案内してくださった、三溪園の吉川利一さん
織田有楽斎は、姪である茶々(後に秀吉の側室、淀殿)、初、江(後に徳川2代将軍、秀忠の正室)の浅井三姉妹を一時期引き取って養育したとも言われている。
2人の姪が嫁いた豊臣と徳川。どちらかの陣営に肩入れして出世を求めるより、そこから離れ、残された人生を茶人として趣味の世界に生きようと考えたのだろうか。
実用にならない形だけの刀掛けがあり、窓の多い開放的なこの茶室を見ていると、争いごとから身を引いて静かに茶の湯を極めたいという織田有楽斎の気持ちが伝わってくる。
三室戸寺金蔵院にあったころ、この建物は同じ三溪園内にある月華殿に付属した茶室だった。
三溪園の主、原三溪は月華殿から茶室を切り離し、水屋と広間を付け加え、自分の隠居所である白雲邸に接続して建てて使っていた。
右の閉じた小さい片引き戸は、直接水屋へとつながる入口
茶人としても高名だった原三溪は、千利休に学んだ織田有楽斎作と伝わるこの茶室を愛し、身近に置きたいと考えたのだろう。
第二次世界大戦中には解体・保存されていた春草廬は、戦後、三溪園が横浜市に寄贈された後に、現在の場所に建てられた。
明るくやわらかい異空間
茶室は異世界であり、社会的立場を越えた場所。
戦国時代であっても、茶室に武器を帯びて入ることは許されなかった。
異世界へいざなうため、茶室にはいろいろな仕掛けが施されている。
門の内側からそれははじまる。
庭に置かれた『伽藍石(がらんせき)』は、奈良の東大寺の礎石(きせき)
露地(ろじ)と呼ばれる門から茶室への小道には大小取り混ぜた飛石(とびいし)が置かれ、手や口を清める水をつかう蹲踞(つくばい)があり、石灯籠が置かれている。
蹲踞は、京都は嵯峨野(さがの)の天龍寺のもの。
夢窓疎石(むそうそせき/京都の苔寺・西芳寺を作った禅僧)の手洗い石と伝えられる
そこを進む間に、少しずつ日常から心が離れていき、飛石を伝い終えると、もうそこは深い庇の下。
右下に見える四角い穴は、塵穴(ちりあな)と呼ばれるもの。
客はここで、最後に残った心の塵を落とすとされる
茶室は目の前だ。
外観で印象深いのが、屋根の大きさ
切妻(きりづま)の屋根は、杮葺(こけらぶき/薄い板を用いたもの)。
竹の雨樋を木の材が支える。金属をほとんど使っていないこともこの茶室の特徴だ