横浜市と鎌倉市の境に飛び地ができたわけとは?【後編】
ココがキニナル!
隣接している戸塚区影取町と鎌倉市関谷では、関谷の中に影取町の飛び地が1か所、影取町の中に関谷の飛び地が3か所あります。一体なぜなのか、理由や現地住民はどう思っているのか(だいさん/ふわとんさん)
はまれぽ調査結果!
敷地内が2つの行政区により二分される場合は個々の方針が異なり運営が難しい場合もあるが、飛び地に住む場合などは大きな問題は生まれないようだ。
ライター:小方 サダオ
前編では、隣接する街との編入や離脱により属する行政区が変わり飛び地が生まれる可能性があることが分かった。しかし、なぜ住所を以前のままにしておくのだろうか。後編ではさまざまな飛び地の例と周辺住民の話などから、投稿の場所に“横浜市の中の鎌倉市”や“鎌倉市の中の横浜市”が生まれた理由を検証してみたい。
なぜ飛び地が生まれるのか
改めて、飛び地が発生する起源にさかのぼり、文献で調べてみることにした。
インパクト著書の『日本の不思議!全国飛び地と境界線地図』には数々の例が載っている。
まずは周りの街との合併に関係がある事例で1つ目の例(例1)は「千葉県の東金市の中央部の上布田(かみふだ)地区の中に山武市(さんむし)・下布田の飛び地があり、さらにその中に上布田の飛び地がある。この地区は元々源村という一つの村だった」
「あたり一面に合併話が持ち上がり、当初東にある日向村(現山武市)との合併の可能性が高かったが、市への昇格を狙っていた東金村(現東金市)が横やりを入れたことから騒動に発展、意見の食い違いから村は分裂し消滅した」
町の合併で出来た千葉県の東金市の飛び地
「1954(昭和29)年、源村は上布田と下布田に分かれ、日向村(現山武市)と東金村(現東金市)に合併した。住所の書き換えなどの手続きを踏めば飛び地にならなかったが、両住民は譲れない意地を飛び地の形で残した」とある。
また歴史的な重要拠点であったため街の境が複雑になった2つ目の例(例2)として「山形県の沿岸部にある鼠ヶ関(ねずがせき)地区には山形県と新潟県の県境が引かれている。山形県鶴岡市の鼠ヶ関地区に新潟県村上市の伊呉野(いぐれの)地区が突起して深く食い込んでいる。理由はこの地区が古代から重要な関所であったということからだ」
歴史的な拠点であった山形県の鼠ヶ関地区にある飛び地
「鼠ヶ関は、陸奥の国・勿来(なこそ)の関、白河の関と並んだ奥羽の三大関門の一つとされてきた。平安中期から鎌倉初期にかけて軍事施設と高度な生産機能を備えた集落であった。深い入り江で絶好の軍事拠点であり、鼠ヶ関を押さえようと熾烈な戦いが繰り広げられたともいわれ、不可解な県境の理由もわかる」とあった。
また『日本列島飛び地の謎 地図に秘められた意外な歴史!』によると、川の流路変更による飛び地の話もある。
3つ目の例(例3)は「平野部では大きな河川が県境になっているのが普通だが、県の一部が対岸に飛び離れているケースも少なくない。これは河川飛び地と言って飛び地の仲間に加える場合がある。利根川の右岸が埼玉県で、左岸が群馬県。県境が利根川の両岸を行ったり来たりと複雑だ」とある。
利根川の両岸にある埼玉県と群馬県の飛び地
さらに4つ目の例(例4)として「飛び地で意外に多いのが、各市町村内の大字(町や村の中の1区画)・小字(農作物を作る耕地が集合したもの)の飛び地だ。江戸時代農民は農作物栽培のために新田開発をした」
「例えばA村の住民は村外にある荒地を開墾するとそこがA村の所有地として認められ飛び地が生じる。B村も荒れ地を開墾するとB村の土地となる。今も大字・小字の飛び地が残っているが、農民たちが離れた土地を開墾した当時の名残といえる」とある。
なぜ残したのか
これらの事例を投稿の場所と重ねてみると、影取町のほうは隣接地域への編入や解散が多かったため、(例1)のような状況になった可能性がある。一方、関谷は玉縄城のような軍事的要所があり、(例2)のように飛び地が生まれたのかもしれない。
城廻り(青線)、関谷(緑線)など、城があったことを思わせる地名
さらに(例3)の事例のように、川の流れの変化により地区の境目が変わったことも想像させた。周辺住民によると、前出の飛び地の場所は川をはさんで横浜市と鎌倉市になっているとのことで、この場所の飛び地は前出の“対岸の飛び地”と見えなくもない。
関谷の飛び地の一つ(緑矢印)は川(青矢印)の対岸にある
市の境を流れる川
川(青線)をはさんで飛び地(緑枠)になっている
川の流れで変わる境目
そして影取町は山谷新田と呼ばれ、関谷は鎌倉郡の大字であった、(例4)のような新しい耕作地による飛び地の可能性も考えられる。
飛び地の場所は水田(青矢印のマーク)であったようだ(昭和44年戸塚区明細地図)
1969(昭和44)年と現在の地図を重ねたもの
南側の関谷内の影取町の飛び地は以前はいくつも散在していた(昭和44年戸塚区明細地図)
関谷内にある影取町の飛び地は水田だったようだ
前出の『日本列島飛び地の謎』によると、「行政上の効率化を図るために住居表示法が実施され、1962(昭和37)年に伝統的な地名が消えて行った。しかし京都では旧町名を守るために、伏見区の両替町は、近世に転入してきた銀座町をはさんで南北に飛び離れている」とある。
飛び地をなくすときには歴史的な遺産を消すことにもなり、旧町名を文化財として残す考えもあるようだ。
銀座町をはさんで南北に離れた両替町