横浜市と鎌倉市の境に飛び地ができたわけとは?【後編】
ココがキニナル!
隣接している戸塚区影取町と鎌倉市関谷では、関谷の中に影取町の飛び地が1か所、影取町の中に関谷の飛び地が3か所あります。一体なぜなのか、理由や現地住民はどう思っているのか(だいさん/ふわとんさん)
はまれぽ調査結果!
敷地内が2つの行政区により二分される場合は個々の方針が異なり運営が難しい場合もあるが、飛び地に住む場合などは大きな問題は生まれないようだ。
ライター:小方 サダオ
飛び地になって住民に不便はないのか
続いて周辺住民から飛び地になった理由などについて聞いてみることにした。
北側の飛び地の近くで畑仕事をしていた男性に伺うと「影取町内の関谷に住む人たちがいますが、町内会が違うため、集会場が遠いくらいで特に問題はないようです。ただ関谷のゴミ収集場所だと遠くなるため、影取町の人たちの了解を得て、影取町の場所に捨てさせてもらっているようです」とのこと。
影取町内の関谷の飛び地に建つ2軒の住宅
次に少し離れた畑で仕事をしていた男性は、「この近くでは小雀浄水場の敷地内が横浜市と鎌倉市に分かれています」
横浜市水道局の小雀浄水場(青矢印)の一部が関谷の範囲(赤枠)だ
「このあたりは以前は鎌倉郡で、東正院(とうしょういん)という古いお寺の敷地が関谷中心に一体に広がっていました」という。
関谷にあった東正院の敷地が広かったことが、ここに鎌倉市の飛び地が多いことと関係しているかもしれない。
東正院の名が残る交差点
また例えば、飛び地のため、敷地内が半分横浜市で半分鎌倉市の施設があった場合に関して伺うと「2つの市は特徴が異なり、複雑になるかもしれません。横浜市の場合は税金は高いですが、その土地の開発に関しては許可が下りやすいと言えます。しかし鎌倉市の場合は税金は安いですが、開発行為に関しては慎重でなかなか許可が下りないと聞きます」とのこと。
そして影取町内に住む関谷の住人は、「私はこの土地の地主の娘のところに婿入しました。以前はこのあたり一帯は義理の父の土地で、鎌倉市でした。県道402号線を整備することになったときに、神奈川県に土地を売りましたが、それが飛び地になったことと関係しているかは分かりません」という。
この一帯(青矢印)の地主は県道402号線(緑矢印)整備の時に神奈川県に土地を売ったという
不便なことについて伺うと「来客の際、住所をカーナビで登録して来られると古い機種の場合は、近い番地なのか、なぜか2kmも離れたSという場所あたりに間違えて行く人が多かったです。また私たちは自分の子どもを鎌倉市の学校に行かせていますが、学校側からは横浜市の学校に行かせる選択もある、と伝えられていました」
「さらにこの場所は元々畑だったのですが、鎌倉市が農地や農家を減らしたりすることに慎重になっているため、農業委員会などに交渉して許可を得るのに時間がかかり、家を建てるまでに3年も時間がかかってしまいました」とコメントしてくれた。
畑に家を建てることは鎌倉市の場合難しいという
続いて南部の関谷内の影取町の飛び地に向かった。
飛び地の近くの女性に伺うと「このあたりは横浜市と鎌倉市と藤沢市の境になっていて複雑です」という。
横浜市と藤沢市の境
鎌倉市(青枠)と藤沢市(緑枠)の境にある横浜市の飛び地(赤枠)、青矢印は三つの市が接する場所
その土地の地主に伺うと「親から飛び地の住人はもともと横浜の人であった、としか聞いていません。以前飛び地のあたりが火事になったとき、当時消防団の団員であった私が現地に向かうと、影取町と思っていた場所は鎌倉市の管轄であることを知り驚きました」とのこと。
関谷内の影取町の飛び地の住人は元から横浜市の人であったという
飛び地が火事になった場合は、どの地域の管轄になるかの判断が難しく消火活動がしづらい場合もあるようだ。
玉縄歴史の会会長の関根さん
最後に玉縄歴史の会会長の関根肇(せきね・はじめ)さんに伺うと「関谷は城廻りの住民が開拓した、『向こう川窪』と呼ばれる耕作地でした。市の境目ですと例えばA市とB市の間で合併などがある際、A市の人が『B市よりA市のほうが知名度がある』などの理由で、位置的にはB市になるのにA市の住所のままでいることを選んだりすると飛び地になることがあります。また鎌倉市で知られている飛び地は龍口明(りゅうこうみょう)神社の飛び地です」と答えてくれた。
鎌倉市津1番地の龍口寺(青矢印)と鎌倉市腰越の龍口明神社(緑矢印)
地図で確かめると、江の島の近くの藤沢市片瀬の中にポツンと鎌倉市津1番地がある。
鎌倉市腰越に移転した龍口明神社の以前の鎮座地だ。
藤沢市片瀬内にある鎌倉市津1(青矢印)
仁王門
ホームページによると「552年、村人達は五頭龍大神を祀るために、龍口山の龍の口に当たるところに社を建てたのが、龍口明神社の発祥と言われている。1947(昭和22)年には、龍口山が片瀬村(現藤沢市片瀬)に編入されて以降、境内地のみ鎌倉郡津村の飛び地として扱われてきた」
龍口明神社のあった龍口寺の本堂
「1978(昭和53)年に村人達の総意により江の島を遠望し、龍の胴にあたる現在の腰越の地へと移転した。なお移転後の現在も、旧境内は鎌倉市津1番地として飛び地のまま残っており、社殿・鳥居なども、移転前の姿で残されている」とある。
鎌倉の住所のままになっている理由について、龍口明神社の岡田さんに伺うと「氏子の方たちは鎌倉の住人であることもあり、藤沢市に編入されましたが、鎌倉一の古社であるこの神社の鎮座地であることを記すために残したようです」と答えてくれた。
今回の飛び地の多くが水田であったことからは(例4)の可能性もあるが、鎌倉の歴史的要所・玉縄城などの軍事的要所が近くにあった飛び地ということを考えると、(例2)の場合もありうるように思った。
取材を終えて
横浜市内に鎌倉市の飛び地が何ヶ所もあるのは、龍口明神社の例のように、鎌倉という地への思いの現れなのかもしれない。
飛び地の住人は鎌倉市への思い入れが強かったのだろうか
―終わり―
うみすすさん
2016年11月07日 11時53分
飛び地には、土地の歴史が深くかかわるんですね。勉強になりました!
ふわとんさん
2016年11月05日 08時22分
昨年6月、本件についてキニナルを投稿しました。ごく近所の見慣れた風景の歴史を掘り下げてくださって、エキサイティングで読み応えある記事でした。ありがとうございます。