菊名池とその周辺に秘められた伝説に迫る!
ココがキニナル!
菊名池弁財天はなぜか水晶玉と刀剣を持っています。また菊名池にはダイダラ坊、龍神、大蛇伝説などがあり、ダイダラ坊が転んで仲手原や白幡池、菊名池ができたとか。鶴見川の氾濫もキニナル(ナチュラルマンさん)
はまれぽ調査結果!
菊名池弁財天が手にするものは龍神伝説や大蛇伝説と結びつき、ダイダラ坊の巨人伝説は鶴見川の氾濫や周辺の地形形成とつながる。調べるほどにこの地域の歴史の豊かさが浮き彫りになっていった。
ライター:結城靖博
こちらは野毛・成田山横浜別院の弁財天
それゆえ音楽や芸術の神様として知られるが、いっぽうで水の神、あるいは五穀豊穣(ごこくほうじょう)や商売繁盛の神としても崇められている。
その意味では、はるか昔から周辺の農地を潤す灌漑用水として利用されていた菊名池の畔に弁天様が祀られていることは、至極もっともといえる。
でも、なぜ琵琶ではなく水晶玉と刀剣を? さっそく現地に赴いてみることにしよう。
まずは菊名池弁財天を拝す
菊名池弁財天の場所
昔はひょうたん型の大池だった菊名池だが、今では東西を走る水道道(すいどうみち)に分断され、北側がかつての池の一部を残す公園、南側はプールになっている。
北側の公園の中に残る池
南側のプール(水道道側から望む)
菊名池弁財天は、上のプールの写真の奥に見える、こんもりとした茂みの裏手にあった。
菊名池弁財天(奥のフェンスの向こうがプール)
道を隔てた社(やしろ)の真向かいに池之端(いけのはた)商店街がある
社も商店街もこじんまりしているが、位置関係で見れば、いわばこの商店街は菊名池弁財天の門前町だ。思わぬところに発見したこの商店街にも大いに興味をそそられるが、今日のテーマは背後の社だ。
鳥居の向こう、境内右手に小さな石像が見えた
近づいてみる。確かに刀剣と丸いものを持っている
だが、この石像はそれほど古いものとは思えない。石像の右側に石碑があった。
碑には「菊名池辨戝天は千年以上の歴史の有る古社である」と記されている
さらに「昭和三十九年七月七日復興せり」と書かれた碑と向かい合うように建つ社を、振り返って拝する。
うむ、なるほど小さいながらも社には風格がある
1964(昭和39)年ということは、再建されたのは今から半世紀と少し前。
近づくと奥の上部になにやら額が飾られている
金網越しに姿を見せたのは、右手に刀剣、左手に玉を持った弁財天の絵だった
これこそがこの社のご祭神なのだろうか。
鳥居の右隣りに神社の縁起を記した石碑があった
石碑には、こう書かれている。
「菊名池弁財天
祭神 市杵島姫命
七福神中唯一人の女神であります 弁財天のお姿は一般には琵琶をお持ちになっていますが この弁財天は右手に剣を左手に宝玉をお持ちになり お顔は美しく気品と愛嬌がおありです 剣は魔を払い交通安全家内安全を現し 宝玉は招福の玉として財宝授与商売繁昌のご守護神であります」
剣と宝玉を持つ女神・菊名池弁財天の表情はとても穏やかだ
左手に持っているのは「宝玉(ほうぎょく)」だった(「宝珠(ほうじゅ)」ともいう)。宝玉といえば、よく龍が手に握っている古い絵を思い出す。龍神の脳から出たという伝説もあるこの宝玉を手にすると、災難を除き濁水を清めるといわれる。
石碑に書かれた「市杵島姫命」とは「いちきしまひめ」と読む。『古事記』や『日本書紀』にも登場する「水の女神」だ。
さらに、社を支える左右の柱には、見事な龍が彫り込まれている。
左の柱の龍と、右の柱の龍
こうして現場からは、「菊名池弁財天」と「龍神伝説」を結びつけるものが次々と見つかった。
そこで、以前「横浜・菊名駅近くにある趣あるレンガ造りの橋台の歴史とは?」でもお世話になった大倉精神文化研究所の平井誠二(ひらい・せいじ)研究所長に、菊名池の龍神伝説についてお尋ねすることにした。
弁財天と龍神伝説との謎は解けるのか?
大倉精神文化研究所の平井誠二所長といえば、同研究所のホームページにも掲載され書籍化もされている『シリーズわがまち港北』で知られる港北区の歴史に精通する研究者だ。
膨大な資料を前に考察する平井誠二氏(過去記事取材より)
同シリーズの第186回「菊名池」の項で、1970(昭和45)年に開かれた菊名池歴史風土研究会において、菊名池が武蔵野の代表的名池と「その歴史に於いて、その龍神鎮座の伝承に於いては全く同一なのに」衰退しているのを嘆かれたことが紹介されている。
「龍神鎮座の伝承」と、ここにはっきりと記されている。ところが、である。実は菊名池弁財天の龍神伝説を明確に記録にとどめた資料はないという。
平井所長によれば、今知り得る資料としては、1976(昭和51)年に港北区老人クラブ連合会が刊行した『港北百話』の「妙蓮寺のこと」の項に、「この池には一三〇〇有余年以前より大龍神が鎮座し、里人は菊名池大明神とあがめたてまつって、その守護を得ていたと伝えられている」という記述が残る程度だとか。
菊名池自身は黙して語らず
また、1954(昭和29)年に横浜港北新報社から出された『われらの港北 15年の歩みと現勢』の「菊名池物語」の項に「ひところは菊名白龍丸弁財天を池畔に奉祀する騒ぎさえもあったが・・・」という一文が残るとの指摘も平井所長からいただく。だが、これが現在の弁財天や龍神伝説とどう関連するのかはわからない。
ちなみに同書刊行の1954年といえば、現在の菊名池弁財天再建の10年前に当たるが。
龍神と弁財天との関係の謎は深まるばかり
だが、大倉精神文化研究所のホームページには、菊名池にほど近い篠原東2丁目に住んでいた古老・押尾寅松(おしお・とらまつ)氏が書き残した『私の散歩みち』という原稿が公開されている。
押尾寅松氏が住んでいた篠原東2丁目エリア
そこには「菊名池の大蛇」という項目があり、菊名池に古くから大蛇伝説が言い伝えられていたことがわかる。とはいえこれとて古老の昔語りであり、確たる資料が残されているわけではない。
だが、以上のことから次のような想像が出来ないだろうか?
菊名池には古来村人を悩ませた大蛇が棲んでいた。その大蛇を、やはりこの池に古くから存在していた龍神の力を借りて、弁財天が鎮めた。それゆえ、弁財天の片手には龍神の脳から出たと言われる宝玉が、もう一方には大蛇を退治するための刀剣が握られているのでは・・・。
弁天様、そうでしょうか?
伝説とは、このように現代人の想像力を掻き立て、心を豊かにしてくれるために存在しているのかもしれない。
古老が伝えるもうひとつのデッカイ伝説
ところで、古老・押尾寅松氏が伝える昔話の中には、さらにもっとスケールの大きな伝説がある。それは『シリーズわがまち港北』の第57回「ダイダラ坊と菊名池」に記録されているダイダラ坊伝説だ。
ダイダラ坊とは、「ダイダラボッチ」「デーラボッチ」などさまざまな呼称で日本各地に伝承されている巨人である。なにしろ一またぎが一里以上あり、富士山や浜名湖など各地の山や湖を造ったという言い伝えが残るほどのデカさだ。
だが、巨人というと恐ろしい印象もあるが、各地に伝わるダイダラ坊はたいてい「気が優しくて力持ち」。人間のために身を粉にして働いてくれるキャラクターが多い。そこで既存の図像を統合すると、次のような愛らしいイメージが浮かんでくる。
筆者の力作「ダイダラ坊のイメージ」
このダイダラ坊が菊名池の周辺にもいたと、古老・押尾寅松氏は子どもの頃、祖父・萬吉(まんきち)から聞いたという。
篠原東2丁目の押尾家の庭の片隅には窪地があった。その窪地がどうしてできたかという話から、壮大な物語が展開する。
昔々、どこからかやってきた巨人ダイダラ坊は、村人のために日々せっせと力仕事をし、村人たちもなにかと彼の世話を焼き、相互扶助の平穏な日々を送っていた。ところがあるとき、長雨で周辺が大洪水となる。おそらく「暴れ川」と呼ばれた鶴見川の氾濫だろう。
鶴見川と菊名池はこんなに遠いのだが・・・(© OpenStreetMap contributors)
雨がやんでも水は一向に引かず、一帯は飢饉に見舞われる。このときもダイダラ坊は村人の苦しむ姿を見かねて、一刻も早く水を引かせるために寝る間も惜しんで川や堤を造り大活躍。しかし、さすがにくたびれた彼は、思わずぬかるみに足をとられてスッテンコロリン! 地響きを立てて尻餅をついたところが、なんと菊名池になったという。
ダイダラ坊が尻餅をついて出来た菊名池の現在(© OpenStreetMap contributors)
そして、踵(かかと)の跡が押尾家の窪地になった。
水道道の西側から篠原東2丁目付近を望む
押尾家の住まいは定かでないが、篠原東2丁目付近は確かに窪地だ。
さらに起き上がろうとして手をついた指の跡が白幡池(しらはたいけ)になったとか!
白幡池の現在
菊名池・篠原東2丁目エリア・白幡池関係マップ(© OpenStreetMap contributors)
そして手をついた指の跡は、武相(ぶそう)高校の坂下の低地にも続いているそうな。
武相中学校・高等学校の正門(左)から正門前の急坂を見下ろす(右)
菊名池・篠原東2丁目エリア・白幡池・武相高校関係マップ(© OpenStreetMap contributors)
いっぽう、指の間が盛り上がって出来たのが白楽から妙蓮寺周辺に至る丘陵地帯で、それは現在の港北小学校から白幡のほうまで続いている。
白楽駅周辺も港北小学校(右の写真の坂を上ると学校)も丘の上だ
また、六角橋から綱島まで東横線と並走する旧綱島街道周辺の平坦地が手のひらの部分。その区間に今も残る「仲手原(なかてはら)」という地名は、「手の中の原っぱ」から「手中原(てなかはら)」と呼ばれ、それがいつしか「仲手原」に変化したのだという。
仲手原2丁目付近の旧綱島街道
ここまでの押尾寅松氏の昔語りをあらためて現在の地図に当てはめてみると、以下のようになる。もちろんAとCの池の所在以外はきわめてアバウトなものだが。
(© OpenStreetMap contributors)
A=尻餅をついた菊名池
B=踵の跡の窪地、篠原東2丁目付近
C=指の跡の白幡池
D=同じく指の跡の武相高校下の低湿地
E=港北小学校から白幡辺りまで至る指の間の盛り上がりの丘陵地
F=仲手原を含む旧綱島街道周辺の手のひら部分
はっきり言ってぐっちゃぐちゃ。こうして律儀に地図で示しても、決してダイダラ坊の姿は浮かび上がらない。だいいち、尻の跡に比べて手が巨大すぎる。
とはいえ少なくとも、とんでもなく大きかったという、そのスケールだけはわかろうというものだ。
寅松翁の話をまとめた平井誠二氏も『シリーズわがまち港北』の中で述べている。「現在では丘陵地帯や低湿地も宅地造成がされて、昔の面影を知ることは困難になってしまった」と。
どだい、今の地図と照らし合わせることに無理があるのだ。
ならばせめて、下記の古地図をじっと見つめて、尻餅をついたダイダラ坊の姿を念視してみようか。
「今昔マップon the web」より
これはいまだ宅地開発など遠い先の1906(明治39)年に地理院が測図した菊名池周辺の地図だ。入り組んだ等高線からもいかに起伏の激しい土地であったかがわかるが、またじっとその等高線の模様を見ていると、なんだかダイダラ坊の姿が浮かんでこないだろうか。
いずれにしても、ダイダラ坊が尻餅をついて菊名池ができたおかげで、水は引き、村人たちは再び畑仕事に精を出す日々を取り戻したという。
めでたし、めでたし。
ほかにも残る菊名池の伝説
なんといっても圧倒的なスケールを誇るダイダラ坊伝説だが、寅松翁は『私の散歩みち』の中で、ほかにもいくつか菊名池にまつわる言い伝えを残している。
翁がわんぱく小僧だった頃、おばあさんから口癖のように言われていたことがあった。
「菊名にひとりで遊びに行ってはいけないよ。池にはこわいカッパがいるからな」
そう言われると池畔の木陰にカッパが潜んでいそうな気もするが・・・
まあ、寅松翁ご自身はついに出会うことはなかったようだが。
また、「ものを言う鯉」という話もある。
昔々周辺が大干ばつにあったとき、菊名池の水門を全開し放水することになった。その前日、黒衣の僧侶が名主の家に現れ、「水門を開けると魚などがたくさん獲れるだろうが、むだな殺生は避け、特にひときわ大きな鯉は池の主なので見逃しくれ」と涙ながらに頼む。結局鯉は殺されるのだが、割いた腹の中から前日僧侶に供した麦飯とタクアンが出てきた。つまり、僧は鯉の化身だったというわけだ。
今も菊名池の中には鯉がたくさんいるけれど・・・
取材を終えて
なにしろ菊名池は平安時代からすでに灌漑用水として利用されていたといわれる。1000年を越えて近隣の村人たちに親しまれてきた池であれば、数多の伝説が残されていて当然のことだろう。
それにしてもあの巨大なダイダラ坊は、その後どこへ行ってしまったのか。
ダイダラ坊は地域ごとに微妙に呼び名を変え、その数は20近くもあるが、その中に「タイタンボウ」というのがある。「タイタン」といえば、ギリシャ神話の巨神族の名前だ。
えっ! ダイダラ坊は日本どころか世界を股にかけていたのか?!
※なお、後日平井誠二氏より、菊名池弁財天の祭神は社殿の中に祀られており、年に一度正月に御開帳されるとのご指摘をいただいた。社殿の上に飾られた絵に似た美しい木彫りの像だ。
―終わり―
取材協力
公益財団法人大倉精神文化研究所
住所/横浜市港北区大倉山2-10-1
電話/045-542-0050(代表)
https://www.okuraken.or.jp/
時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」
埼玉大学教育学部 谷謙二・人文地理学研究室
http://ktgis.net/kjmapw/
参考資料
『港北百話 古老の話から』「古老を囲んで港北を語る」編集委員会編、港北区老人クラブ連合会発行(1976年3月刊)
『われらの港北 15年の歩みと現勢』横浜港北新報社編・発行(1954年4月刊)
『公益財団法人大倉精神文化研究所』ホームページ
「港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)・第57回 ダイダラ坊と菊名池」
https://www.okuraken.or.jp/depo/chiikijyouhou/kouhoku_rekishi_bunka/kouhoku57/
同ホームページ
「同・第186回 菊名池」
https://www.okuraken.or.jp/depo/chiikijyouhou/wagamachi_kouhoku_3/kouhoku186/
同ホームページ
「押尾寅松さんの昔話」
http://www.okuraken.or.jp/depo/chiikijyouhou/oshio_mukashibanashi/
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白髪ハウルさん
2020年05月20日 19時55分
手に宝珠と剣を持つのは神仏習合時代の宇賀神のなごりではないでしょうか?弁財天は中世以降、蛇神龍神の化身である宇賀神と習合されて宇賀福弁財天などと呼ばれて来ました。銭洗弁天などはその代表でしょう。そして宇賀神像はしばしば宝珠と剣を持っています。もっと古い形態としては蛇身人頭であったりもします。こちらの神社では、神仏分離の際に神道を選んだが、神像はそのまま弁天として伝えられたのでは?(石像はそれを元に新しく造られたもの)と推測出来ます。弁財天の古い形態の一つに八臂像(8本の腕)があり、全て武器を持っていました。それが宇賀神の性格が加わった際に宝珠や鍵も持つようになり、やがて二臂像が現れだした経緯があります。
ナチュラルマンさん
2020年05月20日 12時14分
コロナウイルスで大変な最中、取材ありがとうございます。こんなに伝説が菊名池にあったとは知りませんでした。特に鯉の伝説は初めて知りました。鶴見川から離れていても菊名池から菊名川(現在は暗きょ)が鶴見川方面に流れ、鶴見川方面までは平地、湿地(例えば環状2号線の鳥山町付近、新横浜駅から大豆戸付近は特に平地)が広がっています。大雨が続くと鶴見川が氾濫、洪水の広がりは凄まじいものだったかはダイダラ坊伝説が物語っていますね。菊名池周辺を巡っては当時は水害、干ばつとの繰り返しの闘いだったのかと。