戦時中B29が鶴見区の總持寺に墜落したって本当?
ココがキニナル!
戦時中、鶴見の総持寺にB29が墜落したと言う記録があるようですが、総持寺のどの場所なのかが気になります。(つるみんちゅさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
1945年4月15日夜、B29が墜落した現場は總持寺の北西部あたり。機体の残骸などが散らばる惨状だった。子安台の高射砲陣地が撃墜したといわれる
ライター:小方 サダオ
高射砲の砲台があった場所とは
次に、実際に高射砲陣地があった場所に行き、現地での証言を集めてみることにした。
まずは墜落現場から約2km離れた場所にある、投稿のB29を撃墜したといわれる子安台の陣地跡を訪れた。
高射砲陣地がある子安台公園
81歳の和菓子店の男性に、高射砲陣地とその周辺の様子について伺うと、「中学生のころ冒険と称して、浅野中学校と生麦中学校の山の上に入ったところ、直径5メートルほどの複数個の穴がいくつか開いていました。以前親からは高射砲の陣地があったと聞かされていたので、これらがその跡なのではないかと思ったものです」と話してくれた。
高射砲陣地跡と思われる穴があった場所(赤丸)
子安台公園近くの山の上にあったという(Googlemapより)
浅野中学校内の浅野総一郎像のあたりに複数の穴があり
生麦中学校の山の上にもあったという
次に京急線生麦駅近くで本屋さんを営む90歳の店主に話を伺うと、店主は戦時中疎開せず自宅にいたという。生々しい空襲体験とともに子安の高射砲陣地の印象について話してくれた。
「高射砲の陣地については、親から子安台にあると聞かされていました。B29を下から見た印象は、全長30メートルの爆撃機が長さ20cm弱くらいに見え、高度が高い印象でした。高射砲では当てられなかったのではないでしょうか?」
「B29は何度も目撃しました。最初は4つのプロペラがそれぞれ別のサイクルで『ブーン』という音を立てているのですが、そのうち4つのサイクルが一つに重なり大きな唸るような音になって、その音を聞いてB29と分かるのです」という。
戦時中、生麦駅周辺では子安台の高射砲陣地を狙った爆撃があった
「また子安台の高射砲陣地を狙ったと思われる爆撃機の攻撃はありました。ある日私のおばは生麦駅の近くに住んでいましたが、空襲警報が鳴って大家に『危ないから防空壕へ!』といわれ庭にある壕へ走りました。しかし壕には間に合わず爆弾が近くに落ちたそうです」
「おばは部屋に伏せたため、破片が頭上を飛びこえ、助かったそうですが、防空壕に避難しようとした大家は爆弾の破片が腹を貫通し亡くなったそうです。爆心地は2ヶ所あり、幅15メートルほどのすり鉢状の穴が開いていました」という。
高射砲陣地(青丸)を狙ったと思われる攻撃で爆撃された場所(赤丸)(Googlemapより)
男性は高射砲陣地からの砲撃の様子は記憶にないとのことだが、あまり砲撃する機会はなかったのだろうか。横浜に設置されていたほかの高射砲陣地の様子も調べてみることにした。
高射砲の連帯本部があった野毛周辺は
まずは横浜に設置された高射砲陣地について確かめてみると『横浜市史資料室・市史通信NO3』には、高射砲部隊の編成が本格化するのは、航空兵力が発達する昭和期に入ってからだという。
旧日本軍の高射機関砲や高射砲
1944(昭和19)年、横浜に高射第117連隊が編成された。連隊本部は野毛山に置かれ、市内の本牧・岡村・仲尾台・瑞穂・星川・野毛山・菊名・篠原・子安台・三ツ池・高田・保土ヶ谷・間門(まかど)・宮根・池辺に高射砲部隊が配置されたとある。
高射砲の連隊本部があった野毛山。展望台からの見晴らしは良い場所
そこで、連帯本部があった野毛に向かった。
すると、84歳のある店の店主が、横浜市の軍部の重要拠点だった野毛の当時の姿を語ってくれた。
「野毛の山のふもとには、『憲兵隊横浜連隊司令部』という赤紙を出す司令部や、野毛山の水道公園には高射砲陣地があり、近くに野毛分隊の兵舎もありました。自宅近くには憲兵隊の詰め所があったので、流行り歌などを口ずさんだり、日本軍にとってマイナスな意見など、余計なことを言えない雰囲気がありました」という。
戦時中、軍の重要拠点があり緊迫感に包まれていた野毛
「また野毛山公園には高射砲が設置してあり、外から見えないように囲いがしてありましたが、小学生のころにこっそり中に入って見たことがありました。1944(昭和19)年から本土への空襲が始まりましたが、そのころは敵機の数も少ないからか、高射砲陣地からの攻撃はたまに砲撃している程度の印象でした。周りの人たちから『高高度を飛んでいるから高射砲が当たっていない』と聞いていたため、子ども心に『日本はもう駄目だな』と思ったものです」と話してくれた。
「そして1945(昭和20)年5月29日の午前9時ごろ、高射砲の発射音が激しく聞こえてきて『今日はいつもと違うね』とみんなで話し合っていたら、それが横浜大空襲で・・・横浜一帯が焼失した日となりました」と答えてくれた。
敵機の数が少ない時は砲撃も少なかったようだ。しかし、大規模な空襲の際は砲撃も激しく応戦していたことが分かった。
旧日本軍の高射砲はどの程度B29を撃墜できたのか
投稿の場合のように高射砲などでB29を撃墜できた場合はあったようだが、日本側の防空対策はどれほどの成果があったのだろうか。
防御力があるB29は命中してもすぐには墜落しなかったという
日本の防空で活躍した陸軍戦闘機「屠龍(とりゅう)」
『図説 アメリカ軍の日本焦土作戦』によると、B29は好きなように日本列島に爆弾を落としていた。日本軍には防空専門の戦闘機部隊もいたし、高射砲部隊もかなりの門数(東京だけで560門)が配備されていたが、全体としてほとんど攻撃を妨害することはできなかったとある。
攻撃を阻止できなかった理由は、高度1万メートル以上をB29が飛んでいたこと。高射砲部隊が持っていた88式7cm野戦高射砲と99式8cm高射砲の有効射程距離が7000~8000メートルで攻撃が届かなかった。また迎撃戦闘機も高高度を飛ぶために武装を軽くする必要があり、まともに攻撃ができなかったという。
陸軍の戦闘機がB29を撃墜した瞬間
また1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲あたりからアメリカ軍の本土決戦に備えて、日本軍が戦闘機を温存する作戦に切り替え、戦闘機での迎撃する機会が減った。
1945(昭和20)年3月17日の神戸空襲で被弾したB29
本土防空部隊がB29を何機撃墜したかについては、次のように記述がある。
アメリカ軍が認めている空中戦による喪失数は134機、空中戦以外では185機で合計319機。日本本土空襲が始まった1944(昭和19)年6月から終戦までの出撃機数との比率で言えば損失率は1.38%であるという。
空中分解して墜落したB29の主翼
硫黄島に不時着したB29
しかしアメリカ軍が効率の悪い高高度爆撃から、3000~4000メートルで行われる市街地を焼き払う焼夷弾攻撃に切り替えてから、高射砲部隊のチャンスが来た。その最初となった東京大空襲ではアメリカ軍は空中戦で1機、そのほかの攻撃で13機喪失している。その内の何機かは高射砲部隊が撃墜したものと思われる。
高高度爆撃の際は高射砲の弾は届かなかったが、低高度の焼夷弾攻撃の時は撃墜できる可能性が増えたとのことだ。今回調査しているB29が墜落した、1945(昭和20)年4月15日もこのころの時期に当たる。
總持寺に墜落事故の記録は残っているのか
ところで總持寺には、この墜落事故に関して何らかの記録は残っているのだろうか。
千畳敷の広さがある總持寺の大祖堂(だいそどう)
そこで總持寺の広報に伺うと、「1947(昭和22)年11月15日の業務的な記録には『1945(昭和20)年4月6日米軍機墜落。調査』と書かれています」という。
1945(昭和20)年の4月15日から16日かけて起こった墜落事故だったはずなのだが、日付について伺うと「詳細は不明です」とのことだった。
總持寺の仏殿
また第二次世界大戦中の捕虜の情報を調査しているPOW(Prisoner of War=戦争捕虜)研究会のホームページには事故の詳細な記録がある。
1945(昭和20)年4月15日~16日、横浜市鶴見区東寺尾町の總持寺境内に、B29(機体番号44ー69673、第314航空団19爆撃群所属)が墜落した。作戦任務第68号(目標:川崎市街地、第313・314航空団から出撃219機、損失11機) とある。
さらに機長の「John C.Miller Jr.大尉」など乗員12人全員死亡。バラバラになった遺体は集められて總持寺の墓地に埋葬されたが、戦後米軍が遺体の発掘を行い、「Billy W.BRUNNER軍曹」の身元を確認。ほかの遺体の識別は困難だったという。
墜落場所がお寺だったこともあり米兵の戦死者は埋葬されたものの、遺体は戦後米軍により発掘、回収されたようだ。
取材を終えて
アメリカ軍は効率の悪い高高度爆撃から市街地を狙う作戦に変えてから高射砲に撃墜されることが増えたとのことで、危険性のある難しい作戦を行わない効率的な成果は出なかったのだろう。
また、今回調査した墜落現場が偶然にもお寺だったことで、遺体はすぐに埋葬されたのかもしれない。敵地で遺体が放置されている状態よりも、戦死者にとって鎮魂となったのではないだろうか。
墜落現場に建つ教会(右)
―終わり―
マルタさん
2017年09月17日 17時32分
鶴見区に爆撃機が墜落したという話は初めて聞きました。相手側、日本側とも悲惨な事象ではあるが、事実を伝えて行くことも大切ですね。