雨のように落ちた焼夷弾。戦争の悲惨さを横浜大空襲体験者が語る
ココがキニナル!
1945年5月29日に起こった横浜大空襲を語る「横浜大空襲を語り継ぐつどい」で話された体験談とは(はまれぽ編集部のキニナル)
はまれぽ調査結果!
横浜大空襲は雨のように焼夷弾(しょういだん)を落とされ、本牧は火の海になった。焼けた死体はたまらない死臭を発し、死体の山があちこちにできた
ライター:松崎 辰彦
空が真っ暗になった
次は、同じく本牧在住の座古秀子(ざこ・ひでこ)さんの話。1935(昭和10)年10月2日生まれで当時9歳だった座古さんは箱根に集団疎開をしていたが食料難のために栄養失調になり、石川町の自宅に帰された。
5月29日、空襲警報が午前8時ころにあったがすぐに解除され、やれやれと思いお気に入りの白いブラウスに着替えたところまもなく再度空襲警報が鳴った。当時、町内にはいくつもの防空壕があり、そのうちの一つに入った。防空壕には覗き窓があったので外を見たところ、恐ろしい光景が目に入った。
座古さん
「今の寿町あたりでしょうか、目の前に数えきれないほどの飛行機がウワーっと迫ってきて空は真っ暗です。文字通り雨のように焼夷弾(しょういだん)をボンボン落とされました。私はショックのあまり腰が抜けてしまいました」
母親に手を引かれて外に逃げ出した。あちこち炎がたちこめ、その中をくぐるようにして走ったという。
死臭はたまらない臭い
途中でこの世とも思えないような情景も目にした。
「全身火傷で逃げ場を失った人が、熱さのために川の中に飛び込むんです。そして息絶えて浮いている。地獄のような思いでした」
また白いブラウスも標的にされた。
「白い服をきていたせいか、飛行機が低空でやってきてバンバン撃たれました。よく生き延びたと思います」
当時石川町4丁目には海軍の防空壕があり、その中に逃げ込んだ彼女は九死に一生を得た。
当時の防空壕(Wikimedia Commons)
空襲後、9歳の彼女が見たのはあまりに悲惨な光景だった。
「どこもかしこも死体の山で。それで死体の死臭がたまらない臭いです。それがいっぱい漂っていてあっちもこっちもまっくろになった死骸で。本当に積み重なっている状況があちこちにありました」と辛い記憶を開陳(かいちん)した。
幸い父も無事だったが、自分の家がどこか分からないほどに焼け野原になっていた。
やがて終戦。戦後の食料難も経験し、その苦労も味わった。
多くの人がつめかけた今回の集会。多くの人々が、横浜大空襲に関心をもっていることが伺えた。
空襲の実態こそ語り継がねばならない
取材を終えて
「戦争が終わって進駐軍がたくさん来たわけですけれども、その中に『私たちが横浜のことを爆撃したんだ。これは命令で仕方がなかったんだ。悪かった。ごめんなさい』という兵隊もいました。私たちは子どもでしたが、チョコレートやチーズをくれる人もいました」
座古さんは言う。彼らアメリカ兵も素顔は素朴な若者たちだった。しかし当時のアメリカ軍は彼ら末端の兵士に5歳の少年への焼夷弾投下を、9歳の少女への機銃掃射を命じたのである。
“国家と個人”という永遠のテーマを戦争ほど痛切に感じさせるものがほかにあろうか。
多くの人間を無差別に巻き込む戦争。その記憶を持っている人の証言をこれからも追い続けたい。
―終わり―
取材協力
本牧・山手九条の会
三日坊主さん
2018年05月31日 18時56分
横浜に来てから、昭和20年5月29日の大空襲の事を知りました。
こうして、広く世間に知らせる記事はとても良いと思います。
毎年、記事にしていただきたく存じます。