横浜の入江橋と境橋に残る「復興局」銘板の歴史
ココがキニナル!
子安、新子安間の「入江橋」と反町公園のすぐ近くにある「境橋」という橋の「復興局」という銘板が気になります。橋の歴史を遡ることで地域の歴史も見えてきそうです(ねこぼくさん)
はまれぽ調査結果!
「復興局」は関東大震災後に置かれた国の復興事業機関。昭和初期、東京・横浜で多数の「震災復興橋」が生まれたが、その後の戦争と戦後の都市整備などを経て、多くの橋が当時の姿を消している。
ライター:結城靖博
では、「ねこぼく」さんが発見した肝心な「復興局」の銘板はどこにあるのか?
それはこれ。「昭和二年九月 復興局建造」と刻まれた銘板発見!
そこはどこ?
そこはここ。赤い矢印で示したところ
赤い矢印が示す四角い物体は、上流側の2本の親柱の左岸側にあたる。写真右端の陰になった物体が右岸側の親柱だ。この一対の親柱は二筋に分かれた西側の支流、すなわち境橋Bのほうに造られたものだ。
なお、境橋は入江橋とはちがい、右岸側の親柱の側面に、橋名板がしっかりはめ込まれていた。
「境橋ここにあり!」という感じで、しっかり橋名板が存在
ところで下流側には親柱が二対(4本)あったが、上流側は二筋に分かれているにもかかわらず、親柱はこの支流側の一対(2本)だけ。つまり、本流側(境橋A)には親柱が存在しない。
本流側の道を少し上流方向へ歩いていくと、すぐ右手に「ふたつやはし」と書かれたなんとも可愛らしいコンクリートの親柱と欄干が、地面から生えているかのように設置されていた。多分、機能上必要なものなのだろうが、唐突感は否めない。そして、その先は遊歩道。川を連想するものは何もない。
この下に「滝の川」の本流が上流まで続いているのだろう
この実にややこしい構造の境橋は、前出の建造当時の資料によると、境橋Aの長さが7.52メートル、境橋Bが5.03メートル。幅は22メートル。滝の川が入江川よりも細い分、橋の長さはさらに短い。やっぱり太くて短い橋なのだ。
橋上から下流側を臨むとこんな感じ。お世辞にも趣がある景色とは言い難い
一方、上流側の2本の親柱の背後には、東日本大震災後に羽生結弦(はにゅう・ゆずる)さんも一時練習リンクとして利用したことで知られる、旧神奈川スケートリンクがドーンと建っている。
2014(平成26)年に休館したが、翌年「横浜銀行アイスアリーナ」として復活
「復興局」とはいったい何だろう?
入江橋・境橋それぞれに刻まれた「復興局」とは何だろう。
それは、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災の翌年、国が設置した内務省の外局組織だ。
復興局の目的は、震災でとりわけ大きな被害を受けた東京・横浜の都市計画の策定および執行。当然その計画の中には、多数崩壊した橋梁の復興・復旧も含まれていた。
関東大震災では過去記事「元町百段公園が伝える横浜の光と影」でも伝えた通り、地震発生後の火災による人的被害が特に大きかった。実はそこに、橋の崩落も深く関係している。
震災後まもない9月中旬ごろの都橋(『横浜大正大震災写真帖』所収、横浜市中央図書館所蔵)
上の写真は、火災で焼け落ちた野毛の都橋(みやこばし)だ。橋に敷かれた板の上を歩く人の姿が見られる。地震直後、吉田町では橋の崩落のために逃げ場を失い、多くの人が命を落としたという。こうした状況は、横浜の橋のいたるところで起こっていたにちがいない。
なにしろ震災当時横浜市には254の橋があったが、そのうち8割が木製だった。鉄製の都橋ですら上のような被害を受けたのだから、木製橋梁の損壊のほどは計り知れない。
次の写真は神奈川方面、つまり入江橋や境橋に近い地域の惨状を俯瞰したものだ。
震災後の神奈川方面(『横浜市復興会誌』所収、横浜市中央図書館所蔵)
写真のキャプションには、神奈川方面の人は海浜に逃げたため比較的死傷者が少なかったという記述がある。だが、別の記録では、神奈川も新子安方面も火の海と化し、特に石油会社のタンクが爆発するたびに、火炎が拡大した様子を伝えている(『横浜市震災誌 第5冊』)。
震災復興で新設・改修築された橋のことを「震災復興橋」と呼ぶ。震災9年後に横浜市役所が編んだ『横浜復興誌』によれば、横浜ではその数178橋。そのうち国、つまり復興局が施行したものが37、市によるものが141橋だったという。
入江橋と境橋は、その37橋のうちの2橋というわけだ。
巨大地震の教訓を踏まえた震災復興橋になによりも求められたのは、耐震・耐火性に長けた強靭さだったろう。それゆえ全復興橋のうち84%が、鉄製ないしは鉄筋コンクリート製となった。
入江橋・境橋もその中に含まれる。構造的には、両岸を橋桁(はしげた)によって支えられた、もっとも一般的な桁橋(けたばし、ガーター橋ともいう)に分類される。
だが、いかに強靭な橋とはいえ、震災復興橋の大半は1925(大正14)年~1929(昭和4)年の間に造られている。なかでも入江橋・境橋の銘板に刻まれた「昭和2年」は、最も起工が多い年だった。
今からおよそ90年前のこと。その後の都市整備の進展による河川埋め立てや道路建設、あるいは老朽化により、当時の姿をそのまま残す横浜市の震災復興橋は、178橋から41橋までに減少している。
橋名板もなく打ち捨てられたかに見える入江橋や、親柱だけが辛うじて存在を主張する境橋が、どんなに貴重な橋であるかがわかる。
ところで、震災復興橋は単に強靭さだけにこだわって造られたのではない。
入江橋から川を上流へ向かってちょっと歩くと、宮前橋(みやさきばし)という橋に出合う。
川沿いを歩けば入江橋から5分もかからない
実はこの橋も、震災復興橋の一つだ。
ところが宮前橋には復興局の銘板が残されていない
そのかわり、親柱の上には洒落た照明灯が載っている。
四隅の親柱すべてに同じ意匠が施されている
この親柱のデザインは、『横浜復興誌 第二編』の「市内橋梁意匠抜粋」という図案頁に掲載された宮前橋のものと、ほぼ同じだ。
復興局銘板はないが入江橋とは逆に橋名板はある
雑草に隠れてうまく撮れなかったので建造時期を示す銘板の写真は省くが、そこには「昭和三年八月竣工」と刻まれていた。しかし、今から90年前につくられたものとしては、照明灯も橋名板もあまりにも真新しすぎる。後年復元されたものではないか、と想像される。
いずれにせよこの宮前橋の親柱のように、復興橋の意匠には、当時流行したアール・デコ調の凝ったデザインが多く取り入れられていた。
戦後の高度経済成長期に全国で画一的に建設された橋とは異なり、昭和初期の震災復興橋には、一橋ごとに丁寧に設計されたものが多かったのだ。強靭性という実利だけではなく、都市景観も配慮した洗練された橋梁計画だったことがわかる。
ところが、その洒落た意匠の金属製の照明灯や欄干などが、第二次世界大戦中に次々と消えていく。なぜか? 家庭の鍋釜から寺の釣鐘まで根こそぎ接収された、国家総動員法に基づく「金属類回収令」によるものだ。
もしかしたら・・・ではあるが、入江橋の失われた橋名板も、そのせいかもしれない。
真偽はともかくとして、ここからも、歴史が垣間見えてくる。
で、震災復興橋は今後どうなるのか?
2015(平成27)年8月31日付の神奈川新聞に、横浜市が現存する復興橋を保全していく方針を固めたという記事が載った。保全だけではなく、橋巡りツアーや夜間ライトアップなど歴史的な橋の魅力を市民にPRしていくという素晴らしい計画だ。有識者の意見も取り入れたうえで、翌2016年度中には計画を策定すると記事にあった。
そこで計画は現在どこまで進んでいるのか、横浜市道路局橋梁課に問い合わせてみた。すると、進める方向で動いてはいるが、まだ具体的な策定には至っていないという。
それどころか入江橋と境橋については、国道が通る橋なので国の管轄下であり、市の保全計画の対象外なのだそうだ。
なるほど、確かに「復興局」の銘板が刻された橋は、そもそも国の機関が建造した橋なのだから、国の管轄になるということか。
「せいぜい、調査した結果を踏まえて、国に意見を述べることしかできない」とのことだった。
取材を終えて
古びた橋の親柱にはめ込まれた「復興局」という小さな銘板が、関東大震災の被害の恐ろしさと、復興への人々の熱意のほどを教えてくれた。だがさらに時代は巡り、いまや昭和、平成を超えて令和の時代。震災復興の記憶を刻んだ橋もずいぶん減少してしまった。
橋を渡るとき、もしそこに古びた親柱があったら、ちょっと目を留めてみたい。そんな気持ちを抱かされる取材だった。
取材協力
横浜市中央図書館
住所/横浜市西区老松町1
電話/045-262-0050
開館時間/火~金9:30~20:30、その他9:30~17:00
参考資料
・『横浜復興誌 第二編』横浜市役所発行(1932年3月刊)
・『横浜市復興会誌』横浜市復興会発行(1927年1月刊)
・『横浜市震災誌 第5冊』横浜市役所発行(1927年12月刊)
・『写真集 関東大震災』北原糸子編 吉川弘文館発行(2010年4月刊)
・『横浜の関東大震災』今井清一著 有隣堂発行(2007年9月刊)
・神奈川新聞ウエブサイト「カナロコ」2015年08月31日
https://www.kanaloco.jp/article/entry-64310.html
・ウエブサイト「関東大震災の跡と痕を訪ねて」
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/kantoujisin_ishibumi/yokohama_fukkou_hashi/fukkou_hashi1.htm
papa3110さん
2019年08月22日 06時42分
反町駅前通り商店街会長の斉藤です。ふたつや橋と境橋の地に二ツ谷町に住まいしております。地元の人でもなかなか知らない話しでありがとうございます。先日、昭和3年生まれの遊郭(反町公園)脇に住まいされた方に、取材しましたが、子ども頃新しい橋の周りを歩いていたのでしょう。