横浜市内に古くからある橋の歴史を教えて!「長者橋」編
ココがキニナル!
横浜市内には多くの橋が架けられています。普段は何気なく渡っている「橋」に面白いエピソードはないのかキニナル!(トラズキノコさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
現在の「長者町通り」は「八丁縄手」と呼ばれ、「長者橋」と「車橋」が架かっていた。長者橋は江戸時代「土ハシ」「権兵衛橋」などと呼ばれていた。
ライター:橘 アリー
「八丁縄手」を結んでいた橋!
前回の「都橋」と同じように、今回も横浜市内に現存する45の関東大震災後の震災復興橋について歴史を探る。震災復興橋の多くは、横浜の埋め立て地の運河に架けられた橋で、今回は、その中でも歴史が古く、デザイン性に富んだ「長者橋」について調べてみた。
関東大震災で被害を受けた橋の多くは、現在の横浜の中区・南区の埋め立て地にあった橋である。現在とは違い、当時の埋め立て地は、もとは新田として作られたものなので地盤がもろく、その当時に作られた運河に架けられた橋も、道と道を繋ぐための目的の簡素な木製の橋が多かった。そのため、ほとんどが震災で崩壊・焼失してしまったようである。
今回調査した「長者橋」は、現在の京急線日ノ出町駅前から中村川方面まで伸びる長者町通りにある。
現在の長者町通りの様子
ちなみに、この「長者町通り」は、かつて東海道から横浜開港場へ早く行けるように作られた「横浜道」(現在の西区・浅間町交差点付近から吉田橋まで)と呼ばれた道で、1859(安政6)年に整備されるまでは「八丁縄手(はっちょうなわて)」と呼ばれ、東海道から開港場へ入る主要道として使われていた。
なお、縄手とは、田んぼの中にある真っ直ぐな道のことで、八丁とは870メートルの距離のことである。
横浜開港の直前の様子が載っている、図説「横浜の歴史」のページ
長者橋は、名無しの橋だった!?
「長者橋」の完成は1874(明治4)年。
周辺が1870(明治3)年に「長者町」という名前になり、4年後に「長者橋」と名付けられる以前は、特に名前の付いていない粗末な橋の俗称である「土ハシ(どばし)」や名無しを意味する「権兵衛(ごんべえ)橋」などと呼ばれていたようだ。
長者橋は、江戸時代には粗末な木の橋で何度か補修を繰り返しながら使われていたが、1895(安政6)年に横浜が開港して、「車橋」がある山手町(山下町)の居留地から来る馬車が格段に増加。その馬車の通行に耐えられるように1874(明治7)年に架け替えられることになった。
ちなみに、当時から「土ハシ」と呼ばれていて、その名前が現在まで受け継がれている橋が神奈川区幸ヶ谷にある「土橋」だ。
「土ハシ」と書かれている、1851(嘉永4)年の横浜村の地図
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そんな「長者橋」も1923(大正13)年の関東大震災で焼失。その被害金額は当時の金額で1万2000円であった。
職種などによっても差はあるが、当時の大卒初任給は概ね80円で、現在は約20万円であることを鑑みると、現在の物価は昭和初期の2500倍になる。1万2000円の損失は、現在では、概ね3千万円というところになるだろうか。
復興による架け替えは、起工が1927(昭和2)年で、竣工は1928(昭和3)年と『横浜復興誌・第二編』に書かれている。
「長者橋」の総工事費は、当時の金額で10万653円。これも、現在に換算すると、概ね2億5000万円になり、まるで宝くじの賞金のような金額だ。
現在の「長者橋」の様子
現地の橋には、「昭和3年1月20日竣功」となっている
「長者橋」のたもとには、復興橋の特徴であるトイレがある。復興橋のたもとには「交番、トイレ、消火器具納庫」があるのが一般的だったが、東京に比べると横浜に設置された例は少ないようだ。
しかし「長者橋」や「車橋」のたもとには今でもトイレが設置されている。
長者橋のたもとの様子。復興橋の特徴であるトイレがある
なお、横浜に設置された例が少ないのは、当時の横浜は、道路の一部を利用しながら河岸で小さな荷物の積み下ろしが行われていたので、その荷物の積み下ろしの邪魔にならないように、という理由からのようである。
ほかにも宝くじ売り場や、横浜を代表する作家の「長谷川伸(しん)・生誕の地」という碑も建っている。
「長谷川伸生誕の地」碑の様子