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野毛の街の歴史について教えて!【中編―戦後できたお店で一番古いのはどこ―】

ココがキニナル!

戦後まもない野毛周辺の街並みが気になる。今もあるお店の中で一番古いのは!?(とっくんさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

野毛には戦後まもない昭和20年代に開業した店はいくつもある。より古い店を探したどってると明治時代までさかのぼることができるがそれは完結編で

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ライター:永田 ミナミ

戦後の野毛にやってきた店



続いて、戦後の接収などを機に、関内や伊勢佐木町から野毛にやってきた店をたどることに。

洋食キムラ」は、もともと1936(昭和11)年に関内で開業した店がルーツだが、戦後の接収で移転をよぎなくされ、1949(昭和24)年、花咲町に開店した。1994(平成6)年には野毛店を開業し、65年間変わらず、現在も野毛の老舗洋食店として営業している。
  


都橋の袂にある現在の洋食キムラ野毛店
 

「叶家」にほど近い場所にある、洋食キムラ花咲町店だった建物
 

もう1軒、忘れてはならないのが、1946(昭和21)年、野毛に開店した「武蔵屋」である。それ以前は関内で酒屋を営んでいたが、空襲で店が焼けたことから、野毛に現在の店舗を建てて開業したという。
 


看板も暖簾もない、開店前の昼の「武蔵屋」はごく普通のしもた屋のようだが
  

開店しても見た目は変わらないが、店内からはにぎやかな声が聞こえてくる
 

現在は水、木、金曜日のみ営業の「武蔵屋」は、席にすわると何も言わなくても決まった料理が出てきて、日本酒のぬる燗が3杯飲める。「いつまでも健康で長くお店に通ってほしい」という考えから、飲めるのは3杯までである。

日本酒を瓶ビールにすることもできるが、高い位置から急須で注がれるぬる燗のお酌はぜひ体験したいところだ。
 


村田家にて



「村田家」は、前編でも少し紹介した、野毛のふぐ料理店のルーツである。、戦前までは伊勢佐木町にあり、その当時は「天吉」とならぶ伊勢佐木町の天ぷらの名店だったそうだ。そんな「村田家」も接収によって戦後、野毛に移ってきた店である。
 


「村田家」のご主人、藤澤さんに話をうかがった
 

野毛に「村田家」を開店した本間武さんは、戦時中、朝鮮半島や中国大陸へ何度も召集されたが、最後となった1941(昭和16)年の4回目の召集先は、東京だった。その非番の日に銀座「鳴門」で、ふぐが食べられるものだと知った本間さんは、店に通い、やがて調理場にも出入りするようになり、召集解除になった翌1942(昭和17)年、そのまま板前になった。

その後、ふぐ料理を追究するために下関の「春帆楼(しゅんぱんろう)」で1年ほど修業。いよいよ、と「鳴門」に戻ったが、1943(昭和18)年には男子就業禁止令が発令され、板前の道が閉ざされてしまう。そのとき声をかけてくれたのが、常連だった横浜の通信社社長だった。その通信社で社員給食係として働いていたが、今度は会社が空襲で全焼し、本間さんは終戦とともに再び仕事を失うことになる。

そこで、本間さんは、社長から手渡された退職金を元手に1945(昭和20)年、焼け跡の野毛に念願だったふぐ料理店を開業した。これが「村田家」である。
 


ちなみに「村田家」では、クジラやイワシ料理も人気である
 

当時、ふぐは統制外で自由に扱えたため、「村田家」が開業すると、それに続いて野毛にふぐ料理店が次々に開業した。しかし、1949(昭和24)年に、ふぐ毒混入で品川の養豚場で豚が大量死する事件が発生、東京ではすぐに免許制度が導入された。

事件をきっかけに、世間にふぐ毒に対する不安感が広まるのを見た本間さんは、いち早く当局に働きかけ、翌1950(昭和25)年に横浜でも免許制度を導入することに成功した。本間さんは責任者として同業者を親身に指導したという。
 


屋号を大事にし、屋号で呼び合うのは老舗らしい慣習といえるかもしれない
 

ちなみに「村田家」は、伊勢佐木町で開店する際に、もともと米屋だった場所を譲ってもらうときに「どんな店をやってもいいが屋号は守ってくれ」と言われ受け継いだ屋号だそうだ。

現在の「村田家」は、2013(平成)25年末に、木造を維持して改築されたのだが、その話のなかで藤澤さんに「木造の店は、もう数軒しか残っていないからね」と言われて紹介されたのが「東屋」。こちらもふぐ料理の老舗だ。
 


写真は恥ずかしいから、ということで外観はこんな感じ。趣のある店構えだ
 

看板にある「創業明治四十四(1911)年」は、賑町(現在の伊勢佐木町4丁目)に和食店として開業した年だという。1924(大正13)年にふぐ料理の専門店となり、野毛に移ってきたのは1965(昭和40)年。野毛のなかでそれほど古いわけではないが、賑町時代から数えるとまもなく創業100年になる。
 


波まや呉服店にて



野毛本通りに面した「波まや呉服店」の歴史も古い。現在71歳のご主人、茂呂(もろ)さんが5歳ころにはすでに野毛で店を構えていたというから、野毛に店を開いたのは戦後まもなくだろう、とのこと。

野毛に移る以前は、当時はまだ中区だった前里町で呉服店を営んでいたが、接収を免れた野毛が戦後すぐに活気を帯びてきたのを機と見て、先代のご主人が野毛に移転してきたという。
 


現在の波まや呉服店はビルの2階にある
 

階段をのぼってなかに入ると右側にある
 

現在の「波まや」があるのは野毛本通りだが、この場所は支店があった場所で、本店は野毛坂のちょうど苅部書店の向かいあたりにあったそうだ。
 


当時、周囲に平屋建てが並ぶなか、2階建ての堂々たる店構えだった本店
(クリックして拡大/提供:波まや呉服店)
 

店頭の看板には「左記の品特に上値で買入れます」とあり、左記のところには「軍服、飛行服」も含まれている。もはや必要なくなったが、比較的品質のよい軍服や飛行服は、分解して生地として利用したようだ。
 


店内のものを片づけたところに柳家金語楼を呼んで、落語会を催したことも
クリックして拡大/提供:波まや呉服店)
  

闇市がほとんどだったため「裏で買って表で売る」と言われた当時、「波まや」では、物資不足から呉服に限らず飛行服まで幅広く衣料品を扱っていたため、食べるものに困った人たちが売りにきた衣服を、着るものに困った人たちがその場で買っていく「表で買って表で売る」ような状況で、とにかく繁盛していたそうだ。
 


野毛本通りの支店。写真横には中区前里町時代の住所が書かれたのし袋も
クリックして拡大/提供:波まや呉服店)
 

現在の「波まや」があるこの場所は、上の写真が撮影されたときにはまだマーケットがならんでいなかったそうだ。1921(昭和46)年夏の桜木町駅の鉄道復旧によってマーケットが野毛に移転してくるので、その前にすでに支店があったことから考えると、1945(昭和20)年のうちに野毛で開店していたと思われる。
 


野毛地区街づくり会の副会長もつとめる、店主の茂呂弥太郎さん
 

茂呂さんには、「桜川沿いや大岡川沿いなど、吉田新田にかかる橋は歌舞伎の名前にちなんでつけてあるんだよ」ということも教えていただき、「野毛橋」が「都橋」になった理由がわかってすっきりしたのだった。
 


取材はもう少し続く



さて、ここまでは戦後まもない野毛に開業した店と、戦後まもない野毛に移ってきた店を紹介してきたが、古い店を訪ね歩くうちに、時代をさかのぼる糸は、やがて大正時代、そして開港まもない明治時代へと繋がっていくのである。

小さな漁村が活気ある街へと変わっていく時代から今日まで、「野毛」で街の変化を見続けてきたそうした店を訪ねてうかがった話もこのまま紹介したいところだが、いろいろな話をたくさん聞かせてもらえたので、一度ここで区切って、後編の後編、完結編に続くことに。野毛の歴史は本当に深い。
 


都橋の交差点から野毛山方向を望む、2014年6月の野毛本通り
  

では最後に、エンドロール代わりに今回紹介した店と創業年を。。

キムラヤベーカリー  1954(昭和29)年創業
パリ一  1953(昭和28)年創業
萬里  1949(昭和24)年創業
叶家  1949(昭和24)年創業
旧バラ荘  1949(昭和24)年ごろ創業
一千代  1947(昭和22)年創業
センターグリル 1946(昭和21)年創業
洋食キムラ  1949(昭和24)年、野毛に開業
武蔵屋  1946(昭和21)年、野毛に開業
村田家  1946(昭和20)年、野毛に開業
東屋  1965(昭和40)年、野毛に開業
波まや呉服店  1945(昭和20)年ごろ野毛に開業
 

―終わり―
 
参考文献
『野毛ストーリー』大谷一郎著/神奈川サンケイ新聞社発行/1986
『吞んべえの街から』神奈川新聞社統合編集局報道部編/神奈川新聞社発行/2013
『横浜・中区史』中区制50周年記念事業実行委員会編・発行/1985
『なか区 歴史の散歩道 横浜の近代100話』横浜開港資料館編/神奈川新聞社発行/2007
 

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  • あれー?かつ半さんは取材しなかったんですか?戦後間もなくから野毛でご商売されてると聞きましたパリ一さんの先代も修行されていたとうかがいました屋台から出発してるお店も多いようです当時を知っている方がご健在のうちに新しい記事を期待してます

  • 野毛に纏段のことがよく記事になっていますが、どれも面白いです。

  • 「ぱりいち」はよく前を通って見かけていましたが、ずっと「ぱり~」だと思ってました。こういう小さな知識に触れられるのもはまれぽの良い所。

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