かつて野庭に「地獄の一丁目」と呼ばれた地域があったって本当?
ココがキニナル!
小学生の頃、野庭に「地獄の一丁目」があるという話を聞きました。友達の多数が知っていて、先生は古地図で確認してました。どんな所なんでしょうか(さぶさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
かつて野庭に「悪魔王が支配する世界」という意味を持つ「第六天」という小字名があった。そこが「地獄の一丁目」と呼ばれていたかもしれない
ライター:橘 アリー
織田信長が、自ら“第六天魔王である”と名乗っていた!?
「第六天」は『平家物語』『太平記』などの書物に登場していて、平安・鎌倉時代のころから仏教の中の密教(一人の弟子に対して直接伝えられる秘密の教えのこと)の神として崇められていたと確認されている。
ちなみに『太平記』は編纂された年代は不明だが鎌倉幕府の滅亡などを描いた物語で、『平家物語』は鎌倉時代に作られた平家の栄華と衰退を描いた物語である。
「第六天」について書かかれた資料の一つ
そして、密教の修行をする僧侶の間で、第六天魔王は、妻や夫としての姿で近づいてきて、人間を愛欲による現世への執着の虜とし、仏道の修行をして極楽浄土へ向かうことを妨げるものであるとされている。そんな「第六天」は地獄よりも身近で深刻な世界であると考えられていたようだ。
また、仏教の勢力を抑えて南蛮貿易をしようとしていた織田信長が、仏教の威厳を破壊することを視野に入れて、イエズズ会宣教師にあてた手紙の中で、自ら“第六天魔王なり”と名乗っていたという。
戦国時代のイメージ
そんな戦国時代の混乱の中で、“悪いものがカッコいい”という風潮がおき「第六天」は民間信仰として広まり始め、織田軍が信濃や甲斐を制覇したのち、民衆は占領軍に迎合し自ら身を守るために「第六天魔王」の石碑を建てたそうである。
以上のことが、神奈川県内に「第六天」が広まり180以上祀られていた理由であるようだ。
そして旧武蔵の国(現在の東京都・埼玉県の南部の一部・千葉県の北東部の一部)には、340以上の「第六天」が祀られていたそうである。
旧武蔵の国にあった「第六天社」についての一覧表(『消えた第六天』より)
「第六天」が広まったのは、織田信長と関わりがあるとは驚きである。
また「第六天」は日本の伝統芸能である能の作品としても残されている。
関東地方にさらに増え520以上あった「第六天」は仏教の神様であったが、江戸時代になって落ち着いた世の中になると、“悪いものがカッコいい”という風潮が落ち着いてしまい、民衆は祀るのにふさわしい縁起の良い神様を探すようになった。
「第六天」の“六”の数字から、天神第六代の神様である面足能命(おもたるのみこと)と惶根能命(かしこねのみこと)の二柱を「第六天」の神様として祀るように変わっていったようである。
それにより「第六天」の多くは仏教の神様から神道の神様へと変わっていった。
こうなると“神様って何だろう?”と考えてしまう・・・。
泉区の「第六天神社」には面足能命と惶根能命が祀られている(『戸塚郷土史』より)
資料によれば、仏教の神様から神道の神様へと変えられていった「第六天」は明治時代になると徐々に姿を消していった。
その理由としては
(1)明治政府が行った神仏分離令により、仏教か神道かよく分からないということから多くの社の名前が変えられてしまった。
(2)神仏分離により修験道も禁止されるようになった。「第六天」などの民間信仰も修験道によるものだったため、祀られなくなっていった。
(3)明治時代後半になると、神社合祀(ごうし)令が出され、多くの「第六天」は小さな社だったので他の神社に一緒に祀られるようになり、存在が薄れて忘れられていった。
(4)「第六天」は小さな社がほとんどだったので、昭和の戦後の土地開発などで撤去され忘れられていった。
などの理由が考えられるという。
「第六天」も、人間によって別の神様に変えられ、そして、人間の都合によって多くが消えていった。
こうなると、人間が一番恐ろしい存在なのではないだろうかと思えてくる・・・。
数奇な「第六天」の運命が分かったところで、最後に、仏教の神様の悪魔王が祀られている建長寺の「第六天」の様子を確認することに。
建長寺の「第六天」の様子は?
建長寺の様子
「第六天」は建長寺の境内ではなく、前の道路を渡り少し離れたところに祀られている
「第六天」が祀られている社の様子
由来が書かれた看板
看板には、「第六天」は、魔王のごとき力を持つとされていて、厄除けや方位除けの神として信仰されていると書かれている。
この社は普段は閉鎖されていて中に入ることはできない
鳥居の右には庚申塔(こうしんとう)が
左には陰陽師の「阿部清明大神」の碑が立っている
取材を終えて
今回の取材で、魔王のような力を持っているとされていた「第六天」が「地獄の一丁目」と関わりがありそうだと分かった。
そんな魔王が・・・
なんと、誘拐されてしまっている!
魔王を誘拐してしまうなんて、やはり人間が一番怖い!
どうか、魔王「第六天」が戻って来られますように!!
―終わり―
たくみKさん
2020年09月04日 03時55分
地獄の一丁目、ありました! 1980年代前半、あのあたりで遊んでいた子たちはみんな知っているのでは? ぽんさんさんのコメントの通りです。記事中で「関係なさそう」と書かれたビニールハウスが並んだ写真の場所、隣の建物が地獄の一丁目です。上野庭のあたりですが、あの近辺だけ開発から取り残された谷あいで、坂を下っていくと急に静寂の田舎になるので、子ども心にどことなく異世界感を感じてた気もします。団地の子たちみんなでよく自転車で出かけて蛙や虫を取っていました。公社や市営団地の僕らには突然の田舎の景色は新鮮でもあり、夕暮れには急に怖ろしいような気もして、すごくどきどきわくわくする場所でした。地獄の一丁目は、たぶん、口裂け女みたいな子どもの間だけで広まる昭和らしい都市伝説的なものです。郷土史料などには出てこないでしょうし、第六天など歴史的なものとも関係ないと思います。上野庭、地獄の一丁目、懐かしい。
テルヲさん
2017年09月05日 10時35分
地獄の一丁目とてもよく覚えています。そう、ぽんさんさんのコメント全くそのとおりです!下小出身、47年生まれですがやはり小学3、4年くらいのころ学校で噂になって行ってみたというかんじです。今思えば、当時でもめずらしく畑に囲まれたのどかな場所でした。淨念寺に奉納されている古い髪の束を見にって、うすら寒い気持ちのなか自転車での帰り道、地獄の一丁目にさしかかったあたりで、障害物も何もないところで友達の自転車が横転、泣きながら帰った思い出があります。こういった話とかが噂となって、よけい怖い場所、のイメージがついたのかもしれませんね。旧野庭高校のすぐそばあたりだったと思います。
daitnkさん
2017年07月26日 13時04分
下野庭小学校に通学しておりました。たしか3年生か4年生の頃、先生と一緒に探検にいった記憶があります。肥溜めがあり、防空壕の穴が見えて、祠が近くにあったと記憶しています。ロマンポルノのポスターが貼ってあったのも記憶しています。しかしながら、場所がどこなのか?上永谷駅方面だったような気もするのですが・・・昭和44年生まれ