時代とともに姿を消していった横浜の貨物鉄道とは? 東高島駅の歴史を追う!(後編)
ココがキニナル!
日本貨物鉄道株式会社の「東高島駅」ってどんな駅ですか?気になります...(おにいさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
2005年の貨物発着を最後に事実上信号場となるも駅舎やホーム跡を残す東高島駅だが、周辺には再開発の計画が進行中。見に行くのなら今のうちなのだ
ライター:永田 ミナミ
みなとみらいの世紀末(つづき)
1997(平成9)年には桜木町から新港埠頭までの、かつてボートトレインも走った線路跡が整備され「汽車道」として遊歩道となるなど、横浜の貿易を支えた貨物線跡は観光資源として活用されていく。
海の上から眺めた汽車道と2号鉄橋とランドマークタワーとクイーンズスクエア横浜
しかし貨物線が途絶えたわけではない。同じ1997(平成9)年には高島~桜木町間が地下化
高島水際線公園では高島側のトンネルの入口を見ることができる
かつてここには高島駅と操車場があり、そして今日も貨物列車は走り続けている
公園内の線路脇には造成工事で発見された車輪がモニュメントとして展示されている
2000(平成12)年には山下公園内の旧山下埠頭線の高架が撤去され、現在の風景に
ちなみにこの沈床花壇はかつてのフランス波止場(東波止場)の跡である
そして2002(平成14)年には現在の「大さん橋」が完成する
税関桟橋、横浜桟橋、山下町桟橋などさまざまな名前で呼ばれたあと「大桟橋」が定着した桟橋だが、現在のものは正確には桟橋ではなく「岸壁(船舶を接岸させるために港や運河に築いた石やコンクリートの堤)」であり、「桟」が常用漢字ではないため「大さん橋」が正式名称である。
また同じ2002(平成15)年には「汽車道」の先に続く赤レンガ倉庫横の旧新港橋梁近くから山下公園手前の高架までの約550メートルの貨物線路跡が「山下臨港線プロムナード」として一般に開放された。
この遊歩道は歩いたことがある人も多いだろう
日が暮れれば素敵な夜景が一望できる、恋人も濡れる街角である
高架下から海辺までの場所が「象の鼻パーク」として整備されたのは2009年
パーク内では税関と大桟橋(西波止場)を結んでいた単線跡も保存されているし
プロムナードのすぐ下の、このように透明なパネルのなかを覗けば
かつて貨車が方向を方向転換した転車台も保存されている
また、このとき「汽車道~山下臨港線プロムナード~港の見える丘公園」のルートは「開港の道」とされた。
山下公園を抜け、横浜人形の家から港の見える丘公園へと開港の道は続く
そして、みなとみらいが観光地として華やかさを増していくなか、東高島駅は2005(平成17)年の貨物列車発着を最後に鉄道貨物駅としての仕事が途絶え、今日に至るのだった。
現在は信号場としてのみ機能しているが、名称は今も「東高島駅」で「東高島信号場」ではない。
この駅のようで駅ではない駅の未来はどうなっていくのだろう、と思って調べてみた
ひがしたかしま21
そういえば以前、仲木戸駅の高架について調べていたときに「東高島駅をコットンハーバーなど近隣住民が利用できる旅客駅、あるいは旅客と貨物の併用駅に」というような「東海道貨物支線貨客併用化整備検討協議会」の要望を見かけたなと思い出して調べてみると、たしかにそうした要望もあったが、再開発の計画があることも分かった。
そこで、詳しいことを聞いてみようと横浜市都市整備局都心再生課に問い合わせてみると、資料なども見せてもらえるというので、さっそく行ってみた。
そして見せてもらえた、というかいただけたのがこちらの資料と
こちらの資料である
計画は現段階ではまだ決定ではないが、平成30年代中ごろの完成を目標に調整中だという。市が主体の計画ではなく、土地区画整理事業は地権者による「東高島駅北地区土地区画整理組合」が進め、市が埋立事業を請け負う。埋め立ては赤枠内の水域についておこなわれる。
再開発予定地域には高島駅の駅舎と北側の支線がふくまれている
ちなみに地権者はJR貨物と紫色の地域で工場などを営む方たちである
地権者で希望する人は区画内左側の紫色部分で再開することができるという
中央の商住複合ゾーンにはコットンハーバータワーよりも高いマンションが建ち、下層階にオフィスなどが入る予定。また現在も公園となっている部分が拡張され、公園南側には台場保全ゾーンが設けられるほか、医療・福祉施設(青色部分)や海抜の低い横浜駅周辺に大雨や高潮が発生した場合に放水するポンプ施設(ピンク色部分)もつくられる予定だという。
勝海舟が整備した神奈川台場跡はコットンハーバーの星野町公園でも見ることができる
もちろんまだ現時点ではすべて「予定」だが、貨物駅として機能しておらず、区画内の大部分が未舗装の駐車場になっているといったあまり効率的な土地利用ではない現状を考えると、10年後にはこの場所の風景はすっかり変わっている可能性は高いだろう。
貨物線の歴史をたどってきた最後の糸である東高島駅よ永遠に、という気持ちもあるがそういうわけにはいかないようだ。
惜しむらくはこの廃線跡も計画地域にふくまれていることである
「広くなった公園のなかに移設して保存できないですかね」と提案してみたが、この声は届くだろうか。うっかり届けばいいなと願う秋の終わりであった。
取材を終えて
『横浜市統計書』を見ると、1999(平成11)年度は発送2万8020トン、到着300トンだった東高島駅の貨物取扱量は12年度に発着それぞれ872トン/432トン、13年度には352トン/332トン、14年度には204トン/120トン、15年度には132トン/124トン、16年度には16トン/12トン、17年度に発着ともに24トン/24トンと減っていき、2006(平成18)年度以降は毎年「ー」となっている。
そしてあと何年かであの奥に見えるホーム跡ごと
「東高島駅」の欄が消えてしまうかもしれない。見に行けるのは今のうちである
今回はJR貨物にもいくつか質問事項を送り問い合わせた。それから2週間ほどが過ぎたが、現在も調査中とのことである。もし回答で興味深い情報を知ることができたら、そのときは「JR貨物回答編」として追加報告するつもりである。
11月8日、追記
11月5日、JR貨物広報室から回答があった。
2005年(平成17年)11月以降、東高島駅を発着する貨車の入換え作業は終了しているが、2013年(平成25)年10月より、JR東日本の工事用貨車の留置にともない駅構内での貨車入換作業を再開しているという。
また、記事でも触れたが現在は東高島~桜木町間が単線となっているため、根岸駅やその先の神奈川臨海鉄道内の本牧ふ頭まで運転される列車の交差(行き違い)を調整する使命を持つ重要な駅でもあるという。
後者の役割だけなら2001(平成13)年12月25日国土交通省令第151号「鉄道に関する技術上の基準を定める省令」第2条8号における「専ら列車の行き違い又は待ち合わせを行うために使用される場所をいう」にあたる「信号場」ということになりそうだが、工事用貨車の入換えがおこなわれているということであれば「東高島駅」は今日も「貨物駅」である。
今後の予定については「特にコメントはございません」とのことだったが、こうして現在進行形で機能している間は「東高島駅」が完全に姿を消してしまう、ということにはならなそうだ。
そしてそういうことなら、再開発後もあまり変わらない場所に新しい駅舎ができて「東高島駅」が貨物駅として、あるいは貨客併用駅として存続するかもしれないと期待しながら、今回の調査は終了することに。
とにもかくにも今の東高島駅が見られるのはあと数年。散歩がてら出かけてみては
―終わり―
参考文献
『横浜の鉄道物語 陸蒸気からみなとみらい線まで』長谷川弘和著/JTBパブリッシング/2004
『神奈川の鉄道 1872~1996』野田正徳・原田勝正・青木栄一・老川慶喜編/日本経済評論社/1996
『横浜線物語』サトウマコト著/株式会社230クラブ新聞社/1995
『鉄道と街 横浜駅』三島富士夫・宮田道一著/大正出版/1985
『貨物鉄道 軌跡と未来』講談社編/講談社/2011
M576NVJ10Dさん
2016年07月13日 20時55分
前編、後編とも読ませていただきました。いろいろ深く調べているなぁ~と感心するほど、素晴らしい記事です。この記事がここに埋もれていくのはもったいないような気もしますし、貨物線を題材にした記事は他にもあると思いますので、それらを束ねて「横濱鉄道今昔物語」と題したコーナーを設けて参照しやすくするとか、冊子にまとめてネット販売する等、ご検討ください。現在の横浜そごうの裏手にあった広大な貨物ターミナルには運河を隔てて近づくこともできず遠くから眺めるしかなかった鉄道少年たちも今は50代。遠い昔の光景を重ね合わせながら、この記事をガイドに、貨物線の痕跡を見て歩き回りたいと思います。
yamaさん
2015年12月17日 22時16分
因みに、「いかにも役人が無思考でやりそうな醜悪な諸政」だの「横浜をぶった切る万里の長城」だのと言ったのは、飛鳥田市政の大番頭田村明氏
ushinさん
2015年11月04日 00時22分
yamaさんと別の意味合いかもしれないが、『あそこだけ昔から忌み嫌われた「横浜の汚い万里の長城」を残した理由が全く理解できない。』に同意。忌み嫌われつつも、山下公園のまるでゲートのようだった貨物線は幼いころの思い出としてしっかり刻まれている。それも含めて山下公園だった。(2代目横浜駅@高島町の時も、新装なったステーションのまん前を貨物線が「何か問題でも?」とばかりに通過していた横浜らしい)それを目障りということであっけなく撤去してしまった以上、なぜかあそこだけおざなりに残した理由がまったく理解できない。