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横浜発祥のコーヒーメーカーに聞く横浜とコーヒーの深い関係

横浜発祥のコーヒーメーカーに聞く横浜とコーヒーの深い関係

ココがキニナル!

キーコーヒーやキャラバンコーヒー、三本珈琲などコーヒーメーカーの多くは横浜発祥。これだけ揃っているのだからはまれぽさん主導で「横浜珈琲シティ」みたいな仕掛けはできないのでしょうか。(栄区かまくらさん)

はまれぽ調査結果!

日本へのコーヒー普及のそもそもを辿っていくと、開国後の横浜とコーヒーとの深い関係が浮き彫りに。そんな地であるからこそ、横浜発祥のコーヒーメーカーには、創業の地への強い思いがあった。

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ライター:結城靖博

はまれぽ主導で何かの仕掛けをするのはむずかしい。だが、確かに横浜発祥のコーヒーメーカーが多数あるのは大いにキニナルところだ。そこで、さっそく横浜とコーヒーとの関係に深煎り、いや深入りしてみることにした。



横浜コーヒー事始め



まずは横浜のコーヒー事始めについて調べてみた。するとそれは、日本のコーヒー事始めでもあることがわかってきた。
とっておきの資料は、横浜開港資料館・横浜都市発展記念館元調査研究員の斎藤多喜夫(さいとう・たきお)氏が著した『幕末・明治の横浜 西洋文化事始め』(明石書店)だ。同書には横浜、つまりは日本のコーヒー文化の幕開けが詳しく書かれている。

同書によれば、コーヒーは1859(安政6)年の開港直後から横浜港に輸入される。それは居留地に住み始める外国人に求められていたからであることは言うまでもない。



三代広重作『横浜海岸通り之真景』1872年(横浜市中央図書館所蔵)


横浜絵で知られる五雲亭貞秀(ごうんてい・さだひで)は、1865(慶応元)年刊行の『横浜開港見聞誌(5編)』の中で、「横浜にて西洋諸国の婦人集まり豆ひきを以て是をこなすの図なり」という文を添えてコーヒー豆を挽く西洋女性を描いている。


五雲亭貞秀作『横浜開港見聞誌(5編)』1865年(横浜市中央図書館所蔵)


では、日本で最初にコーヒーが客に供された場所はどこかといえば、それは1863(文久3)年に横浜の居留地にオープンした「ロイヤル・ブリティッシュ・ホテル」だった。そこには「コーヒー・ルーム」があったのだ。

これは筆者の推測だが、その後次々に居留地に建つホテルにも、同様の施設が備わっていたことだろう。たとえば1870(明治3)年の開業以来、関東大震災まで長く横浜のホテル界に君臨した「グランド・ホテル」にも。



絵葉書『横浜二十番グランドホテル前』(横浜市中央図書館所蔵)


いっぽう、独立した店としての「カフェ」も横浜が最も早い。ロイヤル・ブリティッシュ・ホテルがオープンした翌年の1864(文治元)年3月に、フランス人・ルノーが「カフェ・デュ・アリエ」を開く。そして同年、さらに「グラン・カフェ・デュ・ジャポン」と「ヴィクトリア・コーヒー・ハウス」が立て続けに横浜で開店する。
そのうちの「グラン・カフェ・デュ・ジャポン」は所在地もわかっている。現在の住所でいうと中区山下町188番地だ。


そこは横浜中華街の中にある山下町公園の向かい辺り


今や中華街ワールドのど真ん中なので、とても西洋のモダンなカフェが建っていたとは想像できないが・・・。

また、カフェが次々誕生した1864年に、居留地外国人の要望で山手から根岸の丘にかけて「外国人遊歩新道」が作られるが、その遊歩道の端に位置する地蔵坂の上は「コーヒー・ハウス・ヒル」と呼ばれていた。山手一番地の向かい側に喫茶店があったからだという。



絵葉書『横浜百景 地蔵坂』(横浜市中央図書館所蔵)


ほかにも本邦初のコーヒーの販売広告も横浜だったりと、やはり横浜こそが、日本のコーヒー文化の発祥地と言えそうだ。



ブラジル移民とコーヒー文化発展との関係



ここから先は、コーヒー文化の黎明期から普及期へと目を移そう。これには三本珈琲(みつもとこーひー)からいただいた資料が大いに役立った。

開港直後から横浜の居留地を中心にコーヒーが伝わったとはいえ、日本人の口には、そうすぐになじむものではなかった。国内で普及する契機は明治の終わり頃ようやく訪れる。

実は、1911(明治44)年から1923(大正12)年まで、日本はブラジル政府から無償でコーヒー豆を提供される。そのことが日本でのコーヒー普及に大きく影響するのだが、それにしてもなぜ無償で?
それは1908(明治41)年以降、多くの日本人がブラジルに移民として渡ったことと関係する。移民の多くはコーヒー農園で働く。奴隷制度廃止後人手力不足が深刻化していたブラジルのコーヒー農園にとって、彼ら日系移民は重要な労働力となった。年間1000俵のコーヒー豆の供与は、その代償だったのだ。



絵葉書『横浜桟橋全景』(横浜市中央図書館所蔵)


この港からも、かつて多くの移民たちが長い航海へと旅立っていったのだろう。そして代わりに、コーヒー豆が港に運ばれてきた。

ブラジルからの無償提供は関東大震災を境に途絶えるが、震災後の外国からの支援物資の中にはコーヒー豆も含まれ、むしろ震災後から第2次世界大戦勃発までの期間にコーヒー豆の輸入量は加速する。輸入先のトップは常に横浜港で、それは現在も変わらない。

またコーヒー豆の輸入増加にともない戦前の喫茶店の店舗数も増大する。その中でも特に有名なのが、東京・銀座に今もある「銀座カフェーパウリスタ」だ。ただし創業店は関東大震災で全壊し、現在の銀座店は1970(昭和45)年に復活した店だが。



銀座カフェーパウリスタ創業店(写真提供:カフェーパウリスタ)


カフェーパウリスタの開業は、ブラジルからの無償提供が始まる1911(明治44)年。しかも店の創業者はブラジル移民事業に中心的な功績があった水野龍(みずの・りょう)だ。この店の存在は、実は次に述べる横浜発祥の事跡とリンクする。



100年続く横浜発祥のコーヒーメーカーを訪ねる



前置きのつもりのコーヒー事始めが長くなってしまったが、ようやく横浜発祥のコーヒーメーカーへの取材に突入しよう。
まずは今年で創業100周年を迎えた老舗、キーコーヒー株式会社だ。


とはいえ現在、同社の本社は東京・新橋にある
 


港区西新橋にあるキーコーヒー本社社屋


対応いただいたのは、経営企画部広報チーム係長の小山泰知(こやま・たいち)さんと同チームの井上さくら(いのうえ・さくら)さん。


小山さん(左)と井上さん


創業した100年前といえば1920(大正9)年。まさにブラジルからのコーヒー豆無償提供の最中だ。ということは同社の創業からの歩みは、そのまま日本へのコーヒー文化普及の歴史ともいえそうだ。

まず、同社の創業者・柴田文次(しばた・ぶんじ)とはどのような人物だったのか。



創業者・柴田文次(写真提供:キーコーヒー)


柴田は東京生まれだったが、早いうちから奉公に出されたその最初の店が横浜に住む姉の薬屋だった。その後、築地の魚屋などを経て、最後に勤めたのが先に紹介した「銀座カフェーパウリスタ」だったのだ。
この店でコーヒー事業の将来性を見出した彼は、最初の奉公先である横浜に店を構える。横浜を選んだ理由は、土地勘があるうえ、コーヒーとマッチする西洋の食文化が発達した都市として目を付けたからだという。

店名は「木村商店」。「木村」は彼の旧姓だ。最初の店は中区・福富(ふくとみ)町に開いたが、正確な場所はもはやわからない。


現在の中区・福富町のエリア


ここで初めて日本人によって焙煎されたコーヒー豆が販売されるのだが、創業当初の柴田文次について、ホテルニューグランドに面白い記録が残っているそうだ。


現在のホテルニューグランド


同ホテルの開業はキーコーヒー創業期と重なる1927(昭和2)年。ホテル開業当初から木村商店と付き合いがあり、柴田文次自ら着物姿で自転車に乗って山下町の同ホテルまでコーヒーを配達していたという。創業当時の様子を彷彿とさせるエピソードだ。

いっぽう、創業翌年の1921(大正10)年には、早くも画期的な「コーヒーシロップ」を商品化する。



コーヒーシロップ(写真提供:キーコーヒー)


「コーヒーシロップ」はコーヒーに砂糖を加えた清涼飲料水で、これが家庭でのコーヒーの浸透に大きく貢献する。


コーヒーシロップ製造の様子(1936年・横浜工場内、写真提供:キーコーヒー)


だが開業3年後に関東大震災で福富町の店が倒壊し、吉田町に移る。そして1928(昭和3)年に「木村コーヒー店」と商号を変え、横浜市内に工場を開設。この工場で、コーヒー以外にもココア、紅茶などの缶入り飲料の製造が始まった。


1928年当時の木村コーヒー店横浜本店(写真提供:キーコーヒー)


吉田町の店の所在地は今でも特定できる。下の写真がその場所だ。


吉田町通り沿いのそこは、現在は「ピザハット」


吉田町通りは、福富町に隣接する。初代の店もおそらくここからそう遠くない場所にあったにちがいない。
下の絵葉書が当時の吉田町の賑わいを偲ばせる。残念ながら「木村コーヒー店」の文字は見当たらないが。



絵葉書『横浜吉田町通り』(横浜市中央図書館所蔵)

横浜に工場ができた翌年の1929(昭和4)年に、ここで日本初の缶詰コーヒー「キー缶」が生まれた。


1929年発売当初の「キー缶」(写真提供:キーコーヒー)


「キー缶」の登場によって、これまで袋詰めしかなかったコーヒー豆を、挽きたてのまま家庭でも味わえるようになる。

その後は台湾でコーヒー農園を開拓するなど、海外進出も活発化するが、これには震災の教訓を踏まえたリスクマネジメントの意味合いもあったようだ。
だがそんな経営戦略も、戦争が吹き飛ばしてしまう。太平洋戦争勃発の翌年、1942(昭和17)年にはコーヒー豆の輸入が完全に途絶えるからだ。
また終戦3ヶ月前の1945(昭和20)年5月に横浜を襲った大空襲で吉田町の店も焼失し、翌年、本社を東京に移すことになる。

戦後、日本にコーヒー豆の輸入が再開されるのは1950(昭和25)年のこと。その間に製造販売されたのが「代用コーヒー」だった。



代用コーヒー「NEAR COFFEE」のポスター(1949年、写真提供:キーコーヒー)


輸入が再開されて間もない1952(昭和27)年に株式会社化した同社は、以後、高級豆の先駆的輸入、インスタントコーヒーの開発、直営ショップの展開、幻のコーヒー「トアルコトラジャ」の発売等々、精力的な事業活動を今日まで展開していく。
横浜と直接関連しないそれらの経緯は割愛するとして、ちなみに社名がブランド名と同じ「キーコーヒー」になったのは1989(平成元)年と意外に新しい。

「キーコーヒー」と聞いて、近年まで横浜市民になじみがあったのは、この光景ではないだろうか。



桜木町に掲げられていた巨大広告看板(写真提供:キーコーヒー)


これは、現在ノジマ電機がある場所に1985(昭和60)年から2013(平成25)年まで30年近く設置されていたので、記憶にある人も多いだろう。

肝心の商品に関しては、1987(昭和62)年に創業当初の味わいをよみがえらせた「横浜1920ブレンド」を、さらに2010年(平成22)年には創業90周年記念として「横浜1920CLASSIC」を発売。



左が「横浜1920ブレンド」、右が「横浜1920CLASSIC」(写真提供:キーコーヒー)


また1989(平成元)年の「横浜博覧会」や2008(平成20)年の「横浜ポート・タウン・フェスティバル」にはパビリオンやブースも出展している。


横浜博覧会のキーコーヒー館「CAFFEE1920」(写真提供:キーコーヒー)
 


「横浜ポート・タウン・フェスティバル」のブース(写真提供:キーコーヒー)


このように東京に本社を移した後も横浜への目線を忘れない同社は、創業100周年を迎えた今、あらためて創業の地を意識した記念商品を世に送りし出した。


創業当時の味わいを再現した「SINCE1920 BLEND No.100」(写真提供:キーコーヒー)
 


横浜の朝をパッケージにしたクッキー「DEPARTURE」(写真提供:キーコーヒー)


この地こそ日本のコーヒー普及の発信地にふさわしいと判断して横浜に店を構えた創業者・柴田文次の思いは、今なお同社に受け継がれていると言えそうだ。



戦後生まれの横浜発祥のコーヒーメーカーを訪ねる



続いて訪れたのは戦後生まれのコーヒーメーカー、三本珈琲株式会社。同社は創業以来ずっと本社機能を横浜に置いて事業を展開している。


現在の本社は海に面した横浜コットンハーバー地区にある


だがグーグルマップで検索すると「横浜支店」と表示される。その理由は、神奈川区金港町(きんこうちょう)にあった本社から昨年一時的に移った仮本社だからだ。いずれ、みなとみらい地区に新本社が建つ予定だという。
 


昨年8月まで金港町にあった本社(建物はまだある、写真提供:三本珈琲)
 


訪れた社屋は本来、商品配送の拠点として機能している


取材に応じてくださったのは本社マーケティング部部長の蒲谷聡(かばや・さとる)さん。
はまれぽステッカーをお渡しすると、「あっ、これ、以前ハマスタへ観戦に行ったとき取材を受けて、もらったことがあります」と懐かしそうに言われた。



蒲谷さんは熱烈なベイスターズ・ファンだとか


横浜愛に溢れたそんな蒲谷さんから、三本珈琲と横浜との浅からぬ縁をじっくり伺う。

同社は1957(昭和32)年、中区宮川町(みやがわちょう)で「有限会社三本コーヒー店」として創業する。社名の由来は、のちに社長となる山本登(やまもと・のぼる)が縁起のいい数字とする「三」と自分の苗字の「本」を合わせたものらしい。

1957年といえばすでにコーヒー豆の輸入再開から7年後のこと。と同時に同社創業から間もない1960(昭和35)年頃から、インスタントコーヒーが日本でブームとなり始める。

こうした中、同社は高品質のコーヒー豆を輸入・焙煎し、本格的なコーヒーを自社の手で直接顧客に届けるということに、創業当初からこだわり続ける。



創業当初の営業車第1号(写真提供:三本珈琲)


初めはオートバイを使っていたという。自らの手で商品を届けることへのこだわりは、キーコーヒーの柴田文次とホテルニューグランドとのエピソードにも通じる。

本格コーヒーの自社配送で顧客の信頼と商品開発の機会を同時に得る同社の手法は功を奏し、創業2年後には社業発展にともない社屋を中区長者町(ちょうじゃまち)に移転。間もなく株式会社化し、1963(昭和38)年には鉄筋3階建ての本社ビルを長者町に建てる。


番地からするとこの辺り。京急・日ノ出町駅に続く横浜駅根岸道路沿いか

 


竣工した長者町の本社ビル。1階には喫茶店があった(写真提供:三本珈琲)


そして1974(昭和49)年に三本コーヒー株式会社に商号変更し(「三本珈琲」に変更したのは昨年のこと)、ロゴマークもおなじみの「M.M.C.」に。また同年、磯子区岡村町に横浜総合工場も開設する。その後はコーヒーばかりかその関連商品や他の飲料なども含めて発展拡大していく。


磯子区の横浜総合工場(写真提供:三本珈琲)


ただし同工場は手狭になり、2018(平成30)年に製造拠点を鎌倉に移した。


こちらが鎌倉市岩瀬にできた鎌倉総合工場(写真提供:三本珈琲)


このほか現在は仙台と札幌、全国で3ヶ所の製造工場を持つそうだが、どんなに規模を拡大しても、前述したように本社を横浜に置くというこだわりは変わらない。

そんな同社の横浜愛がストレートに込められている商品がある。その名も「横浜珈琲物語」。
同製品は、「横浜の歴史と共に歩む三本珈琲が、古き良き横浜への思いを、なじみの深いそれぞれのテイストに」したと同社が謳うロングセラーブランドだ。
袋入り、缶入り、ドリップトップなど多様なタイプがあるシリーズだが、発売以来、パッケージには一貫して横浜の歴史にちなむ同じイラストが採用されている。



ブック型化粧箱入りの「横浜珈琲物語」(写真提供:三本珈琲)


上の写真左上の「開国の夜明け」には「黒船来航の様子」、左下「文明の開花」には「横浜グランドホテル」、右上「異国の情緒」には「1930年頃の横浜中華街」、右下「世界への航海」には「横浜港大さん橋埠頭」が描かれている。

蒲谷さんは取材の中で、横浜と同社のこれまでのつながりの中で特に印象に残る事柄として、1989(平成元)年の「横浜博覧会」でのパビリオン出展を挙げた。



横浜博覧会での「MMCコーヒー地球体験館」(写真提供:三本珈琲)


この博覧会にはキーコーヒーも出展したと書いたが、三本珈琲のパビリオンは神奈川県下の地元企業では唯一の単独出展だった。東海大学情報技術センターの協力のもと多様な地球環境を再現した体験型パビリオンで、当時数時間待ちの行列ができたという。

蒲谷さんは、「これからも横浜に腰を据えていく姿勢を貫いていきたい」と力強く語った。
その思いを裏付けるように、横浜駅の近くには、人気のショッピングエリアのベイクォーターやそごう、そして首都高からもよく見える位置に同社の大きな広告看板がそびえる。



横浜駅東口とベイクォーターをつなぐ立体通路から見たところ


ロゴが「M.M.C」ではない。実は同社は2018(平成30)年にロゴマークを変えた。描かれているのは地球と主要産地である緯度25℃の「コーヒーベルト」。「ここ横浜から世界へ発信していく」という新たな気概が伝わってくるようだ。



取材を終えて


2つの老舗メーカーを取材することで、明治期から戦後におよぶ横浜のコーヒー史の一端を垣間見ることができた。そしてまた、横浜が日本のコーヒー文化史の中心であったといっても過言ではないこともわかった。

そんな歴史の一端を担うキーコーヒーでは、4月17日から自宅でもできる美味しいコーヒーの淹れ方を動画で紹介する「おうちカフェKEY」というサイトをホームページに立ち上げたという。コーヒー文化の普及に100年という歳月をかけてきた同社の矜持を感じる、時代に向き合う取り組みと言えるだろう。



―終わり―




取材協力

キーコーヒー株式会社
本社/東京都港区西新橋2-34-4
電話/03-3433-3311(代表)
https://www.keycoffee.co.jp/

三本珈琲株式会社
本社/横浜市神奈川区山内町15-4
電話/045-461-0111
https://www.mmc-coffee.co.jp/

株式会社カフェーパウリスタ通販事業部
住所/千葉県船橋市湊町2-1-1ニッセイ船橋ビル5F
電話/047-437-1216
https://www.paulista.co.jp/

横浜市中央図書館
住所/横浜市西区老松町1
電話/045-262-0050


参考資料

『幕末・明治の横浜 西洋文化事始め』斎藤多喜夫著、明石書店発行(2017年3月刊)


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  • 三本コーヒーの本社がみなとみらいのどこにできるのか気になります。2017年に三菱地所から土地を取得(600〜2000平米?)したという記事も見ましたが、具体的にどこかは書いていませんでした。あくまでも個人的な予想ですが、47街区の村田製作所みなとみらいイノベーションセンター(建設中)の隣接地とかですかね?今後の動向が楽しみです。

  • キーコーヒーも横浜発祥なんですね。できればキャラバンコーヒーも取材してほしかった。お店でヨコハマをうたってますし。

  • 三本珈琲さん、東口バスターミナルや大岡川沿いの問屋さんなど市内あちこちに缶コーヒーの自販機ありますね。地元企業を応援したくて、よく買ってます。美味しいし!

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