鶴見区生麦「明神前」交差点&バス停名の謎を解く!
ココがキニナル!
キリンビール横浜工場近くに「明神前」という交差点と同名のバス停がある。でも周辺にそれらしい神社はない。「神明社」という神社はあるが、神明と明神は別物。名前の由来がキニナル(いーにーさん、はまにいさん)
はまれぽ調査結果!
「明神前」とは近くにある「神明社」ではなく、京急やJRの線路をはさんだ高台に建つ別の神社に由来する名前だった。とはいえ「神明社」も、負けず劣らず地域と深く結びつく歴史ある鎮守社だ。
ライター:結城靖博
とすれば、キニナル投稿に書かれていた通り、「神明社」という神社と「明神前」という地名が関連しているはずはない。
では、明神前の「明神」はいずこに?謎を解くべく、さっそく最寄り駅の京浜急行線・生麦(なまむぎ)へと向かった。
生麦駅周辺地図
生麦事件の痕跡を訪ねる途上で「明神前」に遭遇
京浜急行線・生麦駅
改札から外へ出ると、すぐ近くに駅前商店街があった。
商店街の右手には京急の踏切。さらに高架橋の先にJRの複数の踏切が
生麦駅前は踏切だらけの凄い場所なのだが、今回目指す場所は反対の商店街の左手、第一京浜方面にある。
左手側に続く商店街「生麦駅前通り商友会」
ところで生麦と言えば、やはり思い起こすのは「なまむぎなまごめ・・・」ではなくて、江戸から明治へと歴史が変わる大きな契機となった「生麦事件」だろう。
早川松山作「生麦の発殺」1877年(横浜市中央図書館所蔵)
1862(文久2)年、薩摩藩主の父・島津久光(しまづ・ひさみつ)一行の行列を妨害したとしてイギリス商人たちを藩士が殺傷したこの事件については、はまれぽにも過去記事があるので詳細はそちらに譲る。
だがせっかく生麦に来たのだから、一大事件の痕跡を挨拶代わりに見ておきたい。
まずは、商店街を第一京浜へ向かう途中にある「生麦事件参考館」。
建物は商店街右手の脇道を入ってすぐ
ここは地元の在野研究者・淺海武夫(あさうみ・たけお)氏が、自宅の一部で開いた私設資料館だ。氏が長年収集した生麦事件関係の膨大な資料が収蔵されている。
続いて「生麦事件発生現場」を訪ねる。こちらは、商店街を抜けて第一京浜を左折、最初の交差点を右に折れ・・・
商店街と第一京浜が交わる生麦駅入口交差点
第一京浜を左折して最初の交差点・大黒町入口
と、グーグルナビを片手に目的地へ向かっていくと、今回の取材対象のひとつに早くもバッタリ出くわした。
キニナル投稿にあった「明神前」バス停
そこは多くのトラックが行き交う、大黒ふ頭へ通じる産業道路沿いだ。
こちらは道路の向かい側のバス停
小さくてわかりづらいが、上の写真左の赤いポストの後ろをよく見ると、もうひとつバス停がある。これも「明神前」。同じ市営バスなのに、同名のバス停が2ヶ所に分かれている珍しい場所だ。
手前は「新子安駅行」と過去記事で紹介したことのある「さとうのふるさと行」。奥は「大黒ふ頭方面」の停留所だ。
都合よく「本題の現場」をひとつ押さえたところで、そこからほど近い「生麦事件の現場」もやはり見に行くことにした。
産業道路の最初の信号を左折すると、まっすぐな道が続く
この道こそ、現在「生麦の旧道」と呼ばれる旧東海道だ。そこを200メートルも歩けば、生麦事件発生現場にたどり着く。
だがそこは民家の外周フェンスに解説板が掲げられているだけだった
しかしこの場所が事件の現場であったことは事実だ
ここで約160年前に薩摩藩士によって4人のイギリス人が斬りつけられ、この通りを上の写真がカメラを向ける神奈川方面へ馬にまたがり逃げ去っていったことを想像しよう。
そのうちの一人チャールズ・リチャードソンは、事件現場から約700メートル先で力尽き、追手の藩士からとどめを刺され死亡する。
その殺害場所付近に今、「生麦事件碑」が建っている。当時の緊迫した情景を思い描きながら、生麦の旧道を辿って碑のある地点へ向かう。
「生麦の旧道」をズンズン進む。左手に見えるのは首都高横浜北線
碑は旧道の終わり近くにあった。首都高横浜北線の真下だ
石碑に近づいてみると、時代の風雪を感じる
ここに来ることにこだわった理由は、実は石碑を見るためだけではない。この碑の背後には、キリンビール横浜工場があるのだ。
キリンビール横浜工場の入口も首都高の下
敷地内にはおしゃれなビアホールもある
このキリンビール横浜工場の近くに「明神前」の交差点があると、キニナル投稿に書かれていた。また、ここでめでたく本題と結びついたわけだ。
地図で見ると目当ての交差点は、第一京浜のキリンビール横浜工場最寄り交差点「生麦一丁目」よりひとつ上り方面にあった。
左の道路が第一京浜「生麦一丁目」交差点付近、右は「生麦の旧道」終点
第一京浜上り方面、生麦一丁目の次に位置する「明神前」交差点
確かに「明神前」とある
二つ目の本題の現場を押さえたところで、さらにキニナル投稿に書かれた「神明社」という神社を訪ねることにした。
そこは、「生麦の旧道」をいったん生麦事件発生現場方面へ引き返した、産業道路手前の住宅地の中にあった。
住宅地の中にポツンと佇む神明社
シンプルな鳥居だ。だが、この簡素な形こそ、神明系の鳥居の特徴らしい。
決して大きくはないが歴史の重みを感じる社殿
ここまで辿ってきた場所を地図で示すと、次のようになる。
(© OpenStreetMap contributors)
「蛇も蚊もまつり」保存会会長を訪ねて
神明社の鳥居の脇に、次のような解説板が掲げられていた。
表題は「蛇(じゃ)も蚊(か)も」
解説板を読むと、「蛇も蚊も」とは300年前から続く「悪疫祓い」の行事だという。「生麦蛇も蚊も保存会」なる保存団体もある。
こうした団体であれば、周辺の歴史に詳しいのではないかと思い、鶴見区役所に問い合わせ、同保存会会長の連絡先を教えてもらった。
解説板には「原と本宮で一体づつ作り」とあるが、「原」とは「神明社」のこと、「本宮」とは旧東海道をもう少し北東へ進んだ生麦事件発生現場に近い「道念(どうねん)稲荷社」のことだ。
「神明社」と「道念稲荷社」の位置関係(© OpenStreetMap contributors)
区役所から紹介してもらった「生麦蛇も蚊も保存会」会長の高橋英之進(たかはし・ひでのしん)さんのお宅は、神明社のすぐそば。旧東海道をはさんだ向かい、という感じだ。
御年84歳の高橋さんは、ここ「原西自治会」の前会長でもあった。いっそう期待が高まったが、お会いしてみると、ご自身は1955(昭和30)年頃この土地に移り住んだ者なので「地元の古い歴史については詳しくない」と言われる。
とはいえ、「蛇も蚊もまつり」については当然ながら詳しい。ご自身が作ったという巨大な蛇体のミニチュア版を手に、神明社を案内してくれた。そして「蛇も蚊もまつり」の様子がわかる貴重な写真も提供していただいた。
神明社の前で蛇体のミニチュア版を手にする高橋さん
現在は、毎年6月の第一日曜日に開催される「蛇も蚊もまつり」。
「神明社」でのその始まりの儀式(写真提供:高橋英之進氏)
地元で採取した萱(かや)を材料にして作る実際の蛇体の大きさは、約30メートルもあるという。
その巨大な蛇を5つの町内会の人々が結集して担ぐ(写真提供:高橋英之進氏)
そして「蛇も蚊も出たけ」と大声で唱えながら練り歩き(写真提供:高橋英之進氏)
家々を巡行して悪霊を祓う(写真提供:高橋英之進氏)
こんなにぎやかな行事が、ここ生麦で300年間続いていたとは。ただ、残念ながら今年はコロナ禍の影響で中止となった。
神明社の横には「生麦神明公園」という公園があった。
その砂場には、こんなかわいい「蛇も蚊も」のオブジェが
高橋さんから生麦育ちの前々自治会長を紹介していただく
「私の前の原西自治会長は、自分とちがって代々この土地に住んでいる人だから、きっと地域の歴史に詳しいと思う」そう言って、高橋さんは青木義雄(あおき・よしお)さんを紹介してくれた。
青木さんのお宅は神明社のすぐ裏手にあり、現在、高橋さんと共に「責任役員」として神明社を管理している。
生まれは1933(昭和8)年。高橋さんより3歳年上の87歳だ。この土地で暮らして義雄さんで3代目になるという。根っからの「生麦っ子」である。
たくさんの資料が積まれた書斎で、丁寧に取材に応じてくれた青木さん
青木さんは、筆者が持参した周辺地図を前に、子どもの頃の生麦の様子などを回想しつつ、「明神はね、神明社のことじゃなくて杉山神社のことだよ」と言う。
その証拠となる貴重な資料を、書類の山の奥から探し出してくれた。
それは長尺な古地図の写しだった
表題には「慶応元年四月東海道往還生麦村軒並書上」とある
慶応元年と言えば西暦1865年。生麦事件から3年後の生麦村東海道筋の家並みの地図だ。
末尾には作図者の記名も
山崎忠三郎氏とは、やはり地元に住む青木さんの知人だという。
そしてこの地図の中に、次のような記載箇所があった。
右上に「安養寺」、その左に「杉山明神」と書かれている。太い黄色の横線は旧東海道だ
現在の地図で位置関係を示すとこうなる(© OpenStreetMap contributors)
こうして現在の地図で表わすと、京急やJRの複雑な線路で分断されてはいるが、明神前交差点と杉山神社に一筋のつながりを感じずにはいられない。
そこで、いったい杉山神社とはどんなところか、現地へ足を運ぶことにした。
いざ、杉山神社へ!
旧東海道(生麦の旧道)付近から明神前交差点方向を望む
道はまっすぐ。その先に見えるのが杉山神社のある岸谷(きしや)の高台だ。このまま直進すれば神社にたどり着けそうな錯覚に陥る。
だが実際には京急の線路が行く手を阻む
仕方なく一旦路地を右折して駅前通り商店街に戻る
商店街を左に折れ京急の踏切、背の低い高架橋下、JRの複数の踏切を抜けると・・・
数十メートル先の商店街突き当たりに安養寺があった
そして安養寺の左側60メートルほど先に杉山神社の鳥居が
この鳥居の形は、神明社と同じシンプルな神明系の造りだ。
鳥居を潜ると、百数十段の階段が続く
上りきったところにもうひとつの鳥居が
この鳥居は上部に反りが入った笠木(かさぎ)と、それを支える島木(しまぎ)の二層構造で、中央には額束(がくつか)がある典型的な明神系の造りだ。
鳥居の向こうに古式ゆかしき本殿が鎮座する
この神社を訪ねる前に幾つかの資料に目を通していた。それによると、この神社の創建は昌泰年間(898~901年)とも推定され、1574(天正2)年には当地の鎮守社になったという。
また、資料の中のひとつに、この神社が「明神前」の由来であることを示す決定的な根拠も見つけていた。それは、「生麦の昔の姿を考える会」編著の『なまむぎ今は昔』という一冊。
その中に、「宮山」と呼ばれる岸谷の高台にある杉山神社は、岸谷、生麦、大黒町の総鎮守であり、1907(明治40)年までは「杉山大明神」とされ、宮山下の海辺は「明神下の浜」と呼ばれていたという記載があったのだ。
また、鳥居には「杉山大明神」と刻まれている、とも。
明神造りの鳥居の、本殿に向かって左の柱に確かに「杉山大明神」の刻字を発見
右側の柱には「天明元年」と刻されている
天明元年は1781年、江戸幕府10代将軍・徳川家治(とくがわ・いえはる)の時代だ。杉山神社は少なくとも近世から「明神様」として周辺の広い地域で崇められていたことがわかった。
すると、どうしても明神前の交差点と杉山神社をつなぐラインが気になってしまう。
それはこの青いラインだ(© OpenStreetMap contributors)
もしかしたら、明神前交差点を通る直線の道は、今でこそ複雑な線路に阻まれているものの、かつてそのまま杉山大明神へ続く参道だったのではないのか?
この推論について青木義雄さんに確認してみた。すると、あえなく仮説は否定されてしまった。「だって明神前の交差点ができたのは、そんなに前じゃないからねぇ」と。
「参道と言えば、今の駅前通り商店街こそ、昔は安養寺の参道だったんだよ」と言う。上の地図のピンクで示したラインだ。
「むしろ、今の明神前の交差点もバス停も全部含めて、この辺り一帯が『明神前』だったんじゃないかな」
青木さんにそう指摘された。
どうやらこの辺り一帯が「明神前」、そして「明神下の浜」であったと考えるのが自然なようだ。
(『今昔マップon the web』より)
上の時系列対照地図は、左が1912(明治45)年のもの、右が現在だ。赤い丸印が杉山神社。この当時、確かに旧東海道沿いの南側は海だ。
青木さんも語っていた。「自分のおじいさんの代の頃までは、旧東海道の向こうにはきれいな遠浅の海が広がっていたそうだよ」と。
また、左の地図を見ると、すでに通っていた京浜電鉄と海岸線との間には旧東海道をはさんで陸地がある。まさにこの一帯が「明神前」だったのだろう。ちなみにこの一帯は、1914(大正3)年から京浜電鉄が販売を開始した、関東の私鉄で最初の分譲住宅地だったとも青木さんが教えてくれた。
生麦の海は江戸時代から、江戸前の海苔の有力な養殖場のひとつだったという。また「生麦」という地名自体が、「貝の名産地」⇒「生の貝を剥(む)くところ」⇒「生むき」から転じたとの説もある。
杉山神社の高台の鳥居から望む景色
かつてはこの眼下に「明神前」の生麦村集落、そしてその先に「明神下の浜」の美しい遠浅の海が広がっていたのだろう。
そんな豊かな海を擁した土地に、首都とつながる鉄道や幹線道路の建設、宅地開発や京浜工業地帯の発展など、近代以降めくるめく押し寄せる人工の波が、いつしか「明神前」という地名の由来さえ都市化という埋め立て地の中に覆ってしまった――そういうことのようだ。
取材を終えて
実は「明神前」という名のバス停はもう1ヶ所ある。
(© OpenStreetMap contributors)
地図の下側がすでに紹介したバス停、上にあるのがもうひとつのバス停。大黒町入口交差点近くの第一京浜沿いにある。
この停留所の近くに、ものすごくキニナル建物を見つけた。
その建物はバス停のすぐそばに建つ
真正面から見ると、こんな感じ
鳥肌が立つほど美しい宮造りの建造物だ。正面ののれんには「朝日湯温泉」と書かれていた。
実はここ、はまれぽの過去記事で複数の銭湯のひとつとして紹介されていたが、「銭湯シリーズ」を展開する筆者としては、ぜひ一度あらためてこの一店舗だけを深く取材してみたいと思わせる佇まいだ。
取材時のこぼれ話ではあるが、こんな立派な銭湯がいまだに存在していること自体、生麦の歴史の深さを感じさせるのだった。
―終わり―
取材協力
横浜市中央図書館
住所/横浜市西区老松町1
電話/045-262-0050
開館時間/火~金9:30~20:30、その他9:30~17:00
https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/kyodo-manabi/library/tshokan/central/
時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」
埼玉大学教育学部 谷謙二・人文地理学研究室
http://ktgis.net/kjmapw/
参考資料
『なまむぎ今は昔』生麦の昔の姿を考える会編著、230クラブ発行(1993年11月刊)
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まーもまーもさん
2020年08月07日 09時39分
久しぶりに覗くと我が生まれ故郷が!私は、30年以上前に、まさに杉山神社にある保育園に通っていてそこの宮司さんが園長先生でした!そして、今はなき実家は生麦の神明社から50mのところ!毎日日が暮れるまで神明社の社で友達と走り回り、すごくすごく思い出深いところです!蛇も蚊も祭りももちろん経験者です。小さいながらになんでこんなことするんだろうって気持ちと、大人がその長い蛇をぶつけあう姿にいつかやってみたいなと思っていました。高校卒業を期に20年ぐらい前に市内の別の場所へ引っ越してしまいましたが、何年かに一回車でふらっと懐かしき生麦の辺りをドライブしにいきます。あぁこんな風にお店かわっちゃったなーとか。この記事を読んで物凄い子供時代を思い出しました、ありがとうございました!
かわせみさん
2020年08月02日 10時49分
杉山神社ってそんなに歴史あったんですね。子供の頃岸谷に住んでて、友達との遊び場が杉山神社やすぐ近くの法政女子の裏山でした。夏祭りには参道の階段に出店が並んでいた記憶が。神社が経営している保育園があって、同級生にはそこに通ってた子もいました。そして工場見学はキリン。
いーにーさんさん
2020年07月31日 19時37分
キニナル投稿者です。取材ありがとうございました!明神って杉山神社のことだったのですね、まさか線路の向こうだったとは。実は数年前まで明神前交差点横のマンションに住んでいたので、ずっと気になっていました。謎が解けてよかったです!