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横浜の古道を歩く 東海道その1 ―縄手道編―

横浜の古道を歩く 東海道その1 ―縄手道編―

ココがキニナル!

市内に残る「古道」を調べていただけませんか?「えっ!普段歩くこの道が?」「こんな崖っぷちの道が?」など。家の裏の小道が昔は重要な街道だったとか、凄く浪漫があります。(よこはまうまれさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

数多く残る横浜の古道。その一筋一筋を丁寧に歩くことで、ピンスポットのガイドでは得られない「旅する感覚」を再現する。第一弾は王道の東海道。まずは、市内最北端から神奈川宿の手前までをたどる。

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ライター:結城靖博


江戸・日本橋を起点に京都まで続いた近世の大動脈・旧東海道。その街道を現在の地図に重ねると、横浜市内の端から端までは次のようになる。



© OpenStreetMap contributors)


緑のポイントはJR南武線と京浜急行線の八丁畷(はっちょうなわて)駅のやや南に位置する鶴見区・市場上町(いちばかみちょう)の交差点。そして赤いポイントは戸塚区・鉄砲宿(てっぽうじゅく)交差点を少し南に下った藤沢市との市境だ。もちろん、青で描いたラインはアバウトな道筋にすぎない。

江戸から京都という距離から見れば、横浜市内の区間などわずかなものかもしれない。だが、丁寧に地図で道をたどると、全行程は約28.5km。なかなかの長さだ。しかもその間に神奈川宿・保土ケ谷宿・戸塚宿と3つの宿場を通り、幕末の歴史舞台となった場所も多く、見どころは尽きない。

ダイジェスト版の観光案内とは一線を画して、一筋の古道をきっちりたどることにこだわる今回の取材の趣旨からすると、1本の記事にまとめるには少々ボリュームが多すぎる。

そこで、東海道を4回に分けて紹介することにした。まず初めは、川崎宿を出てから神奈川宿へ続く長い長~い「縄手道(なわてみち)」編である。

なお、古道を「きっちりたどる」ために大いに役立ったのが、1987(昭和62)年に横浜市教育委員会が刊行した『横浜の古道』だ。



『横浜の古道』表紙


大判B4サイズのページをめくると、現在の地図上に赤い線で横浜市内の古道の行程が詳細に記されている。古書店で運良く見つけた本書がなければ、ここまで細かく道をたどることはできなかっただろう。

ただし「現在の地図」と言っても30年以上前のものなので、道路事情が今と異なり、最新の地図と突き合わせたとき戸惑うこともあった。だがそれもまた面白い発見と言える。



「縄手道」とは、いったい何だ?




さて前置きはこのぐらいにして、いよいよ一緒に旅を始めよう!



スタートラインはここ、市場上町(いちばかみちょう)交差点



ここから先が横浜市鶴見区だ。



後ろを振り向くと川崎市川崎区。高架橋が見える辺りが八丁畷(はっちょうなわて)駅だ




地図で見ると、ここ。東側に第一京浜が並走する(
© OpenStreetMap contributors)


ところで、本編のタイトル「縄手道」とはいったい何だろう?

それは、田んぼの間を文字通り1本の縄のように長く続く畦道(あぜみち)のことだ。堤を築き、両端には並木が植えられることが多かった。
下の浮世絵に当時の東海道の典型的な縄手道が描かれている。



貞秀作『東海道之内生麦』1863年(横浜市中央図書館所蔵)


もちろん「八丁畷」という地名も、そこから来ている。前出の市場上町交差点前後の写真に見られる直線の道の形状が、かつての縄手道をほうふつとさせるだろう。

また『東海道之内生麦』の左手に描かれた海にも注目したい。神奈川宿へ向かう東海道の縄手道の左手には、おおむね海岸線が続いていた。それは、下の江戸時代の地勢図からも明らかだ。



『元禄年間ニ於ケル後ノ横浜ノ地勢』(横浜市中央図書館所蔵)


画面中央を横断する東海道は、左端の保土ケ谷宿に入る辺りまでひたすら片側は海だ。

「海沿いを通る縄手道」。これが本編でたどる東海道だったということ。そのことをぜひ頭に入れながら、これからの旅を続けてほしい。



旧市場村を歩く





八丁畷は東海道川崎宿の上方見附(かみがたみつけ=京側の宿場の出入り口)を出た辺りから、神奈川宿方向へ続いていた。

スタート地点の市場上町交差点付近から南下して鶴見川に突き当たる辺りまでは、かつて武州橘樹郡市場村(ぶしゅうたちばなぐんいちばむら)と呼ばれていた。「市場」の由来は、海辺のこの地が古くから漁業が盛んで、魚介の市が栄えていたからだという。



だが今は、道の両サイドに住宅地が広がる


さて、市場上町交差点からこの道を南下すると・・・



数分で右手に神社が見えてきた


名前は熊野神社。明治初期に当地の村社になったという。



大きくはないが歴史を感じる佇まいの社殿だ


鳥居に一礼して先へ進むと、また数分ほどで今度は左手に次のような碑が現れる。



碑には「武州橘樹郡市場村一里塚」と書かれている


一里塚(いちりづか)とは、旅の里程目標のために、主要な街道に一里(約4km)ごとに設けられた塚だ。ここは日本橋から数えて五番目、そして現在の横浜市内で最初に現れる塚でもある。

ただし、上の写真の石碑は1933(昭和8)年に建てられた記念碑だ。



そしてその奥には祠が安置された少し高まった場所がある


当時の一里塚には共通の規定があった。

街道の両脇に5間(9メートル)四方の塚を築き、塚の上には遠くからもわかる目印として榎(えのき)を植えた。現在ここにある塚跡はその片側のみだが、民有地の一里塚は現在ほとんど残っておらず、ここは京浜間で唯一残されている塚だという。



一里塚をあとにして5分ほど歩くと・・・




民家の向こうに橋が見えてきた



ここは鶴見川に架かるその名もズバリ「鶴見川橋」


もともと「鶴見橋」と名付けられていたが、今はここより一つ東側に位置する第一京浜(国道15号線)上の橋に、その名を譲っている。



元「鶴見橋」橋上から現「鶴見橋」を望む


江戸時代の鶴見川橋(当時の名は「鶴見橋」)は長さ45.5メートル・幅5.5メートルの板橋で、遠く箱根の山々まで望める景勝地だったそうだ。



今はその方向には建物しか見えないが


また現在、橋のたもとは両端とも住宅地だが、江戸時代には橋の前後に「よねまんじゅう」という名物を売る店が軒を連ねていたという。市場村側だけでその数40軒。

なかでも市場村の「鶴屋」「亀屋」、鶴見村の「二六屋」が有名で、明治の中頃まで商売を続けていた。ウズラ状の丸くて小さな米粉のあん入り饅頭だったらしい。



こちらは北側(旧市場村側)の橋のたもと




そしてこちらが南側(旧鶴見村側)の橋のたもと




南側のたもとを過ぎると、すぐ左手に旧東海道にちなむ史跡を発見




右側の案内板に「鶴見橋関門旧跡」とある


この橋のたもとには、幕末に関門(かんもん)が設けられたのだ。

関門とは何か?幕末開港期、幕府は居留外国人の行動範囲を「神奈川から十里四方、東は六郷まで」と制限したが、そのエリアで攘夷(じょうい)派浪士による外国人殺傷事件が頻発する。そこで外国人の身を守るために居留地の周辺7ヶ所に関門を設置した。その一つが鶴見橋関門だ。

「饅頭」と「関門」。なんだか不釣り合いな二つが歴史に記憶をとどめる空間なのだった。

市場上町交差点から鶴見橋関門跡までは、距離にしてわずか1kmあまり。



© OpenStreetMap contributors)




旧鶴見村を歩く




鶴見川を越えると、街道の左右には大きめのマンションや公園、さらに図書館などが現れ、市街中心部の雰囲気が漂い始める。



通りの先には商業施設のビルも見えてくる

 

そして県道14号(区役所前通り)を越えた先右手に「鶴見神社」がある




旧東海道脇から参道が延びている




鶴見神社は旧鶴見村の総鎮守だ


風格をそなえた横浜有数の古社である。



平日の昼下がりでもお詣りする人の姿が目立つ




境内の宝物殿には古い言い伝えの残る御神輿が納められていたり




長い歴史を誇る神事芸能「鶴見の田祭り」の解説板があったり




「馬上安全寺尾稲荷道」の道標があったりと、見どころが多い


「寺尾稲荷」はここから直線距離で約2.5km西にある寺尾城址近くの、現在の馬場稲荷神社のこと。馬術上達・馬上安全祈願の神社として古くから名を知られていたそうだ。

ところで、川崎宿から神奈川宿までは距離も長いことから、街道筋で旅人のために茶や酒、食事などを提供する「立場茶屋(たてばぢゃや)」が発達した。

なかでも鶴見神社参道入り口に江戸時代中頃からあった、茶と梅を供する立場茶屋「信楽(しがらき)」が、人気どころだったという。一説では、店内の井戸のかたわらに割れて廃棄された茶碗類が積もりに積もって、江戸時代末期には五尺(約1.6メートル)にもなったとか。長年の繁盛ぶりをうかがわせる逸話だ。



鶴見神社側からそんな参道入り口方向を見ると・・・



アレ?


参道入り口の向かいに「信楽茶屋」という名の店があるではないか。でも、そこはラーメン店。茶と梅がラーメンに変わってしまった?
茶店「信楽」と縁があるかどうかはわからないが、店主の歴史を踏まえたネーミング・センスはなかなか心憎い。



この辺りから先、旧東海道は「鶴見東口駅前通り」となり、京急鶴見駅へ続く


進むほどに駅前繁華街のにぎわいが濃くなっていく。



やがて京浜急行線の駅が見えてきた




旧東海道と駅前の大通りが交差する角にはこんな案内板もあった


ここから旧東海道は京急鶴見駅をまたいで、同駅東口駅前の「鶴見銀座」につながる。



© OpenStreetMap contributors)




左角にりそな銀行がある通りが、鶴見銀座の入り口だ




鶴見銀座の車道は一方通行で決して広くはない。そしてやはり、真っすぐな道が続く




5分ほど歩くと、この交差点辺りからマンションや民家が目立ち始める


目の前を横切る道は「本山前(ほんざんまえ)通り」。この周辺で本山と言えば? そう曹洞宗大本山・総持寺(そうじじ)のことだ。



交差点の右手奥に鉄道の高架橋が見える



上を通るのは京浜急行線だ




さらにその先に何本ものJRの線路が横たわり、線路の向こうに総持寺入り口を発見


かつてはここが参道だったとわかる。



JRの線路を横断する長い歩道橋を渡れば、向こうまで行ける


だが総持寺と言えば、東海道との縁を抜きにしてもこれだけで1本の記事が書けてしまう大きな存在だ。今回は寄り道せず旧東海道を先へ進もう。歩道橋の上から手を合わせて、もとの交差点に戻る。



本山前通りとの交差点から先、旧東海道はわずかに左へ曲線を描き


ものの1分ほどで第一京浜「下野谷町(したのやちょう)入口」交差点に至る。



目の前の景色は一変して、車がビュンビュン通る大通りだ




旧東海道はこの先、第一京浜を突っ切って右手の細い道に続く


鶴見橋関門跡から下野谷町入口交差点までの道のりは、およそ1.4km弱だった。



© OpenStreetMap contributors)




生麦魚河岸通りを歩く




第一京浜を渡り右手の道へ入ると、旧鶴見村から旧生麦村へ。なんとなく空気そのものも変化する感じがする。



通りに入って最初に目に止まったのがこの高架橋だ




高架橋の下まで来て右手を見ると、「ムムッ!」




思わずアーチの中へ誘われてしまう




トンネルの中は、まるで舞台装置のような世界だ




どうですか、この濃厚な昭和の香り!




そして、なかほどには駅の券売機と改札口がある


そう、ここぞディープ横浜スポット、JR鶴見線の無人駅「国道(こくどう)」なのだ。ついここだけで大量の写真を撮ってしまった。いつかここをテーマに記事を書きたいと思わせる、とつてもなく魅惑的な場所だ。

しかし今回はあくまで東海道をたどる旅だ。この道が東海道であった時代にこの駅はなかったのだから、コーフンする心を抑えて、さぁ、先へ進もう。



国道駅の高架下をくぐると、またまた真っすぐな道がずう~っと続く


思い出してほしい。本編冒頭の浮世絵『東海道之内生麦』を。そして、この道を絵の中のように延々と連なる「下に~、下に~」の大名行列が、かつて現実にあったことを想像してみたい。

「生麦の旧道」とも呼ばれるこの通りは、別名「生麦魚河岸(うおがし)通り」としても知られている。



通り沿いの外灯ポールには「生麦魚がし」の掲示板が




そして通り沿いには多くの鮮魚店が並ぶ



しかもこの通りの店舗の特徴は、寿司屋や小料理店などプロの目利きが足を運ぶ点だ。終戦間もない頃には150軒を超える店があったという。
その理由については「生麦の地名の由来」をレポートした過去記事にくわしく書かれているので、ぜひそちらを読んでいただきたい。

とにかく、ここは豊かな漁場を目の前にした土地だったからこそ、古来から漁業が栄え、その歴史が今日にもつながっているわけだ。

通りをさらに進むと鮮魚店が少なくなり、やがて右手に鳥居の連なる神社が現れる。



丸い石碑に「道念稲荷」と書かれている


この道念(どうねん)稲荷神社では、およそ300年この地に続く「蛇(じゃ)も蚊(か)も祭り」が今も行われている。



こちらは、いくつもの鳥居をくぐった先にある社殿




境内脇には「蛇も蚊も祭り」についての解説板も


実はこの地域の「蛇も蚊も祭り」は、以前筆者が書いた「明神前の名前の由来」についての過去記事で紹介しているので、ぜひそちらをご覧いただきたい。

けれどもこの祭りは当地の2ヶ所の神社で行われており、ここは上記の過去記事で焦点を当てなかったほうの神社だ。

いっぽう、道念稲荷神社には「蛇も蚊も祭り」とは別に、幕末史に縁が深い街道にふさわしいエピソードがある。

かつて神社の斜め向かいには、「蛇(じゃ)の目(め)茶屋」という立場茶屋があった。幕末の横浜居留外国人に許されていた遊歩地の北限・川崎宿六郷までの途中にあったこの茶屋では、彼らのために当時珍しかった西洋酒を提供し評判を得ていた。居留外国人たちは茶屋の女将(おかみ)を、親しみを込めて「スーザン」と呼んだそうだ。



神社の斜め向かい。今そこには民家しかない


だが、そんな居留外国人に人気があった茶屋のすぐ近くで、悲惨な事件が起こる。



そこは道念神社から南下して数分足らずの場所




その場所の右手に、事件を伝える案内板がある




そう、時代の大転換をうながした「生麦事件」の発生現場だ


事のあらましは、京へ向かう薩摩藩主の父・島津久光一行の行列に、たまたま神奈川宿方面から馬でやってきたイギリス人4名が鉢合わせ、馬上から降りないことを無礼とみなされ殺傷されたというもの。

もしかしたら英国人一行は、もうすぐたどり着くスーザン女将の「蛇の目茶屋」で一服するのを楽しみにしていたかもしれない。だがそこを目前にして、修羅場を体験することになる。



切りつけられた4人は、もと来たこの道を一目散に馬で引き返す


しかし、そのうちの1人リチャードソンは深手を負い、この先1km足らずのところで絶命。今、そこには「生麦事件碑」が建っている。また2人は、ここから5km以上先の本覚寺のアメリカ領事館に逃げ込み、唯一の女性はさらにその先の居留地まで無事逃げ帰る。

ちょっとした偶然によって生まれたこの事件をきっかけに、やがて事態は薩英戦争にまで発展する。

いっぽう、加害者側の島津久光一行も、さすがに「これはまずい」と思ったのだろう。予定の宿泊地・神奈川宿をパスして一駅先の保土ケ谷宿に宿営地を変える。しかも襲撃を恐れた久光自身は、夜半に大名の宿泊場所・本陣から一般人が泊る旅籠(はたご)へ身を隠す。この辺りの展開は後続の「保土ケ谷宿」編で、ぜひあらためて詳述したい。

今はとにかく、事件後4人のイギリス人と島津一行がいずれもたどった道を、筆者もさらに進むとしよう。するとやがてまた、大通りが見えてきた。



交差するのは第一京浜から大黒町(だいこくちょう)へ続く産業道路




産業道路を渡ると、まだまだ細くて真っすぐな道が続いていた


左手上方に見えるのは首都高・横浜北線だ。この道に入って100メートル足らずで、右手の脇道の奥に鳥居がチラリ。



住宅地の狭間でうっかりすると見落としそうだ




この神社の名は「神明社(しんめいしゃ)」


神明社は先ほど見た道念稲荷神社と並ぶ、もう一つの「蛇も蚊も祭り」の拠点だ。

今回は、過去記事で触れなかった事物について紹介しよう。



それは鳥居の右横に寄り添うように並ぶ古い石仏や道標だ


中央の美しい表情の地蔵塔には「延寶」という元号の文字が見える。1670年代。江戸時代もかなり早い時期の作だ。ほかにも「寛延」「享保」など江戸時代中頃の元号が読み取れ、神社の歴史の深さが感じられる。



街道に戻ると、首都高を左に見ながらさらに直線の道が続くが




5分ほどすると道は首都高と交差し、右へぐにゃりと曲がる




そして、車が絶えない第一京浜とつながる


場所は生麦一丁目交差点。



その交差点のすぐ先左手に「生麦事件碑」が建っている




すでに記した通り、深手を負ったリチャードソンが絶命した地だ


下野谷町交差点から生麦一丁目交差点までの「生麦魚河岸通り(生麦の旧道)」は、距離にして約2km弱の道のりだ。



© OpenStreetMap contributors)




第一京浜合流の道を歩く




ここから先は、神奈川宿に入るまで、ひたすら現在の第一京浜に沿って東海道は進む。



生麦事件碑の建つ付近はキリンビール横浜工場でもある




その先は、ただもう交通量が多いばかりの国道沿いの旅となる


神奈川宿まではまだ長い道のりだが、その長さのわりには、ちょっと先まで行かないと旧東海道と関連する場所に出会えない。



ここは京急・新子安(しんこやす)駅周辺


向こうに見える跨線橋は新子安橋。



子安通二丁目交差点付近で、高層ビルに囲まれるように建つ古民家を発見


ここだけ「江戸時代な感じ」ですごく気になったが、普通の民家のようだ。



さらに進むと入江川に架かる入江橋


この橋については、過去記事「入江橋と境橋に残る『復興局』銘板」をぜひご一読あれ。



入江橋の先にある歩道橋の上から神奈川宿方面を望む


ああ、道は太いが、やはりひたすら真っすぐだなぁ。



入江橋を過ぎると、やがて京浜子安駅入口交差点に至る


東海道を横浜市内北端から南下する旅の第一弾は、この辺りで終息しよう。
唐突のように思えるかもしれないが、この次に控える浦島町交差点辺りから、東海道はようやく神奈川宿の空気を漂わせ始めるからだ。

生麦事件碑から京浜子安駅入口交差点までの距離は1.8km弱。数字よりも長~く感じる道中だった。



© OpenStreetMap contributors)


そして、市場上町交差点から京浜子安駅入口交差点までの本編の全行程は、寄り道部分の距離を除いて約6.4km。



赤いラインがたどった道(© OpenStreetMap contributors)


数字だけ見ると、サクサク歩けば2時間もかからないかもしれない。だが、あちらこちらに寄り道しつつ街道をたどっていくと、時間はあっという間に過ぎていく。
さあ、皆さんはどのぐらいの時間をかけて踏破できるかな?



取材を終えて





川崎宿から神奈川宿までの間にある鶴見、生麦周辺には立場茶屋も多く、「間の宿(あいのしゅく)」とも呼ばれていた。だから地理的には、本編は「間の宿編」としてもよかった。それをあえて「縄手道編」とした理由は、この「長~い海沿いの道」という地勢的特徴を強調したかったからだ。
田んぼと海岸が延々と続く土地に堤を築き並木を植えて、徳川幕府の国家的大事業として整備された人工の街道が、明治政府によってつくられた「明治一号国道」すなわち「第一京浜」と並行・合流している点も興味深い。

第二弾は、京浜子安駅入口交差点から先、いよいよ「神奈川宿」へと突入する。そこは幕末史を彩る史跡が数々残るエリアだ。どうぞ、ご期待あれ。


―終わり―


取材協力

横浜市中央図書館
住所/横浜市西区老松町1
電話/045-262-0050
開館時間/火~金9:30~20:30、その他9:30~17:00
https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/kyodo-manabi/library/tshokan/central/
※開館時間は感染症対策のため、変更の可能性がございます。詳しくは公式サイトでご確認ください。


参考資料

『横浜の古道』横浜市教育委員会文化財課編集・発行(1982年3月刊)
『横浜の古道(資料編)』横浜市文化財総合調査会編集、横浜市教育委員会文化財課発行(1989年3月刊)
『改訂版 神奈川の宿場を歩く』NPO法人神奈川東海道ウォークガイドの会編著、神奈川新聞発行(2008年9月刊)
『横浜歴史散歩』横浜郷土研究会編集・発行(1976年7月刊)
『近郊散策 江戸名所図会を歩く』川田壽著、東京堂出版発行(1997年7月刊)
『私たちの横浜・よこはまの歴史(第2版)』横浜市教育委員会発行(2003年4月刊)

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  • シリーズ化するようなので楽しみにしています。生麦事件は以前調べたことがあったので興味深く読ませて頂きました。

  • またまた膨大な調査でしたね〜

  • またまた膨大な調査でしたね〜

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