横浜の古道を歩く 吉田道その1 ―戸塚区~栄区編―
ココがキニナル!
市内に残る「古道」を調べていただけませんか?「えっ!普段歩くこの道が?」「こんな崖っぷちの道が?」など。家の裏の小道が昔は重要な街道だったとか、凄く浪漫があります。(よこはまうまれさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
道を歩けば歴史が見える! 古道シリーズ第四弾の「吉田道」は、鎌倉に遊ぶ江戸庶民にとってショートカットの観光ルートだった。まずは広重の有名な浮世絵の舞台を起点に、ひたすら南下する。
ライター:結城靖博
せっかちな江戸っ子気質が生んだ道?
シリーズ第三弾の「大山道(おおやまみち)」が大山を中心に関東一円に幾筋も放射状に広がっていたように、鎌倉へ通じる「鎌倉道(かまくらみち)」もまた多くのルートがあった。
鎌倉時代に東国武士団が各方面から「いざ鎌倉へ!」と馳せ参じる「上道(かみつみち)」「中道(なかつみち)」「下道(しもつみち)」が整備された。
江戸期に入ると、名所鎌倉へ向かう庶民の観光ルートがそこに加わる。シリーズ第二弾で取り上げた「金沢道(かねさわみち)」も、そのひとつだった(ただし金沢道は、下道の一部でもあったが)。
金沢道。正確には金沢からさらに朝比奈切り通しを経て鎌倉に至る(© OpenStreetMap contributors)
今回の「吉田道(よしだみち)」も、そうした「鎌倉へ至る道」の一本だ。
ただ特徴的なのは、金沢道が各地の名所名跡を巡りながらの周遊コースだったのに対して、吉田道はダイレクトに鎌倉へ向かうショートカット・コースだったことだ。
これはあくまで筆者の憶測にすぎないが、せっかちな江戸っ子気質が生んだ「鎌倉への近道」だったのかもしれない。
こちらが今回の吉田道の全行程(© OpenStreetMap contributors)
ご覧の通り、鎌倉へ向かってほぼまっしぐらに南下する。
なお地図をよく見るとお気づきと思うが、実は今回、シリーズの禁を破って(笑)、横浜市を越境する。なぜなら市境を越えてさらに遠く続く東海道や大山道と違って、終点と定めた鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)まではもう一息だからだ。そう考えるともったいなくて、掟破りを敢行することにした。
全行程は約10km。さっさか歩けば2時間半かもしれないが、もちろん今回もそうはいかない。
スタート地点はおなじみの名画の舞台
吉田道のスタート地点は、これまで古道シリーズに何度も登場した下の浮世絵の舞台だ。
歌川広重筆「東海道五拾三次之内 戸塚 元町別道」(横浜市中央図書館所蔵)
画面右の橋は柏尾川(かしおがわ)に架かる吉田大橋。画面手前から橋の向こうへ続く道が東海道。橋のたもとに「左り かまくら道」の道標が建ち、道標から左へ続く道が吉田道だ。広重の描いた場所は、東海道と吉田道の分岐点だった。そして、絵の中の道標は、現在も近傍の別の場所に移されて残る。
――と、ここまではすでに古道シリーズの東海道5・戸塚宿後編で紹介している。とはいえ、今回は上の絵の場所も移設された道標も主役級の存在なので、繰り返して恐縮だが外すわけにはいかない。
というわけで、これが現在の吉田大橋の様子
橋のたもと右手には趣きある風情の祠「木之間稲荷社」が建つ
そして橋のたもと左手の川沿いに続く吉田道
確かに今、広重の絵の中の道標は見当たらない。代わりに信号待ちの人が立っていた。
吉田大橋橋上から吉田道方向を望む
出発早々、早くも寄り道
ではいよいよ、川沿いに沿って出発だ。と言った矢先に、寄り道。
歩き始めるとすぐ左手に見える脇道へ折れる
東海道5でも紹介した、移設された道標をもう一度確認するために。
かって知ったる路地を進み
突き当たりを右折すると
ほどなく左手に妙秀寺(みょうしゅうじ)が現れる
境内に入ったらココ(矢印)に注目!
これが吉田大橋にあったとされる道標だ
残念ながら上、3分の1ほどが欠損し「くらみち」としか読めない。また広重の絵と異なり「道」ではなく「みち」だ。右側面に延宝年間(1673-81年)の年記がある。
道標を確認したら、寺の前を横切り別の路地を通って川沿いの道へ戻る
つかの間の柏尾川沿いの道中
さあ、ようやく本格的な吉田道歩きを始めよう。
川の流れに沿う道は大きく右に弧を描いている
少し歩くと右手に駒立橋(こまだてばし)が見える
川向うは戸塚駅周辺の市街地だ。ちなみに「駒立橋」の名は、昭和初期までこの付近に競馬場があり、橋の辺りで出走馬の支度をしたことに由来するそうだ。
道の左側には日立製作所の大きな敷地が広がる
その右隣りに東戸塚小学校の正門があり
小学校を過ぎた辺りで道は左に屈曲する
金沢道も大山道もそうだったが、古道歩きは川沿いの道をわりと長く歩くことが多い。だが今回は、早くもここで柏尾川とお別れする。
吉田大橋からここまでは、わずか600メートルほど。10分とかからない距離だ。
下のマップの赤いラインがこの間の吉田道。紫のラインが妙秀寺への往復ルート。
(© OpenStreetMap contributors)
駅前繁華街を突破し、やがて旧道へ
柏尾川と別れると、道は急に駅前繁華街モードに
そもそものんびりした古道歩きを良しとする筆者だが、時節柄なおのこと人混みを避けたいので、少々引き気味な心持ちで前進する。
うひゃ~、密なところに来ちまった!
ここは上倉田(かみくらた)交差点だ。
交差する道路の右手は戸塚駅周辺
交差点を足早に通りすぎてさらに前進する
この道は県道203号線。別名「大船停車場矢部線」といい、大船と戸塚をつなぐ道路だ。
駅から離れると徐々に通りに静けさが戻ってきた
ここで、上の写真左手の路地へ入る。事前調査によれば旧道はこの脇道に続いているらしい。
路地をしばらく進むと、左手奥にちらりと鳥居が見えた
この小道は「子之八幡社(ねのはちまんしゃ)」へ続く参道だ。
石造りの質素な鳥居をくぐり、社殿へ続く階段を上る
創立年代は不詳だが、古くからの村の鎮守社だ。現在の社殿は大正時代の造営
おおっ! 境内右奥に素敵な光景を発見
影になって一部見づらいが、庚申塔・道祖神塔・地神塔など9基の石塔が整然と並ぶ。吉田道沿いに点在していた祈りの塔の数々が、ここで大切に守られていた。
旧道に戻るとまもなく、道はなだらかに右へカーブし
ふたたび県道203号線に合流する
線路は続くよ、古道とともに
合流してすぐ、左手に盛徳寺(せいとくじ)への標柱と案内板が目に入る
開山は17世紀後半の古刹だが、事前調査では特に古道と関連する史跡はなさそうだ。でも、一応立ち寄ってみる。すると、ここでまた素敵な出会いが・・・。
お寺の方と思しき女性が山門で犬のブラッシングをしていた
このワンちゃんがなんとも人懐っこくて
カメラを向けるとお行儀よくポーズをとってくれた
道中半ばのホッコリとしたひとときだ。
ちなみに本堂は緑に抱かれた禅寺らしい清楚な佇まいだった
盛徳寺をあとにして、ふたたび古道に戻る。
この先は当分右手に線路を見ながらの道中が続く
JR東海道線・横須賀線の線路だ。
しばらく進むと、また左手に寺院の案内板を発見
蔵田寺(ぞうでんじ)は16世紀に開山された古刹だ。ここにぜひ見ておきたい史跡があるので、また立ち寄る。
境内は広く、本堂も風格がある
本堂右横には堅牢そうな石造りの地蔵堂が建ち
地蔵堂の左に数多くの石塔・石碑が配置されていた
そのうちのひとつ、この尖頂角柱の阿弥陀文字塔に注目
正面に「是よりとつ可本宿江道」と刻されている。吉田道のいずこかの路傍に、東海道戸塚宿への道標として置かれていたものだろう。「元禄十三」(1700年)の年記がある。
江戸時代の吉田道が、鎌倉と戸塚宿をつなぐ主要な脇街道だったことを伝えている。
蔵田寺を去って線路沿いの道をさらに先へ進むと、
上倉田南(かみくらたみなみ)バス停の手前で石塔を発見
刻字がしっかり読み取れる
「月山 湯殿山 羽黒山」そして「右加まくら道」とある。道標を兼ねた出羽三山碑だ。なお左側面には「左りむらみち」、裏面には「寛政十」(1798年)の年記がある。「むらみち」とは「村道」だろう。だが、どこぞの村を指すかは不明だ。
三山碑を過ぎてまもなく、道は左に折れて線路から離れる
左手に林宗寺(りんそうじ)という寺院があるが、ここはスルーして
さらに進むと下倉田(しもくらた)交差点に至る
吉田道は、ここで県道からいったんそれて、左の脇道へ続くことになる。
柏尾川との分岐地点からここまでの距離は約1.5km。20分弱の道のりだ。下のマップの赤いラインが、この間の吉田道行程。
(© OpenStreetMap contributors)
旧道の証しを伝える史跡たち
下倉田交差点で左折した理由は事前資料に基づくのだが、ここが確かに古道であったことの証しがその先に複数残されていた。
交差点を左折すると、いかにも古道っぽく左右にうねる道筋が続き
やがて右手の駐車場の角に1本の石柱が見つかる
近づいてみる
この写真の面には「めんかけ如来 かさこひ太子 道」とあり、右下に小さく「右かまくら」と刻されている。また、影になっている左面には、「親鸞聖人 舊跡 面懸阿弥陀如来江ノ道」とある。これは、この道をさらに直進した先にある永勝寺(えいしょうじ)を示すものだ。
永勝寺の本尊は「面懸阿弥陀如来」。また「笠乞(かさこい)太子」と呼ばれる聖徳太子像も安置されている。鎌倉へも永勝寺へも、道標が指す方向は間違っていない。1788(天明8)年の造立以来、ずっとここにこうして建っているのだろうか。
いずれにせよ鎌倉へ向かいたい筆者は、道標に従ってここを右折する
右折後はしばらく住宅地の中の細い路地を進む
まもなく右にカーブする道の角に、赤い屋根の祠を発見
堂内には1713(正徳3)年に造られた延命地蔵尊(えんめいじぞうそん)が祀られている
また、お堂の右手には「かまくら道」と書かれた木碑もあり
ここが確かに「鎌倉へ至る道」であることを教えてくれている。
その先をさらに進むと、ふたたび県道203号線に合流
旧道をたどる旅はここで終了だ。
消滅旧道と区境の道
県道合流後は、まずは道中必見の場所へ立ち寄る。
そこは合流直後にぶつかる下倉田交番前交差点を左折したところだ
左折するとすぐ左手にお目当てのものが
「南谷戸(みなみやと)の大わらじ」だ。
これこそ、鎌倉へ向かう庶民がいかに多くこの吉田道を利用していたかの証拠だろう。とはいえ大わらじの誕生は近代以降のこと。
元々は、村の安泰と旅人の安全を祈願して、松の小枝にわらじを吊るしていたという。大正時代に、地元の青年たちが村おこしの一環として大わらじを掲げ、今でも3~4年ごとに作り替えられているそうだ。
敷地内には道祖神・地神塔・庚申塔・馬頭観音や各種の山岳信仰碑が祀られている
ところで、下倉田交番前交差点には、本筋の県道203号線から右にそれる枝道がある。
ラーメン店「六角家」をはさんで左が県道、右が枝道
右の道に入っていくと、まもなく左手に豊田(とよだ)小学校の校庭が見えてくる
かつて旧吉田道は、交差点から始まる枝道がこの小学校の敷地内を通り、ふたたび現在の県道につながっていたらしい。今では校庭によって寸断されてしまっているが。
なお、豊田小学校は戸塚区と栄区の区境に位置する(小学校は栄区側)。
小学校に隣接する県道沿いのJA横浜
この辺りから先、古道の旅は栄区内の道中となる。柏尾通り大山道も戸塚区から泉区に入ると、がらりと様相が変わり始めた。今回もそんなことを期待しつつ、さらに南下を続ける。
するとまもなく、目の前に大きな高架橋が現れた
長沼交差点。上を横切るのは環状3号線だ。吉田道はこの交差点を越えて直進する。
下倉田交差点から長沼交差点までは1kmちょっと。徒歩15分弱の距離だ。下のマップの赤いラインがその行程。オレンジのラインは小学校で途絶した旧道。
(© OpenStreetMap contributors)
貝殻坂で妄想にふける
長沼交差点を過ぎるとすぐ左手に、長沼八幡社への案内板がある。同神社は江戸時代初期創建された長沼村の鎮守社だ。
「どれどれ」と寄り道を決め左へそれる
しばらく進むと左側に参道の階段があり
階段上の鳥居の左脇に、古い庚申塔が数基並んでいた
ただ社殿自体は、けっこう真新しい印象だ
吉田道に戻ると、今度はすぐまた右の脇道に入る
少し歩くと左手に山門が見える
幾度も宗派替えをして、現在は臨済宗円覚寺派の正安寺(しょうあんじ)。開創年代は不詳だが、親鸞聖人ともゆかりがある古刹だ。
本堂は質素な造り。しかしその左手の光景に意表を突かれる
墓苑の前に無数の石仏たちが所狭しと安置されていた
「どうしてこんなにたくさん…?」と不思議に思いつつ正安寺をあとにして、吉田道に戻る。
やがて古道は右に大きくカーブして
なだらかな上り坂がしばらく続く
ここは貝殻坂(かいがらざか)だ。この坂の名から、「柏尾通り大山道」第1回記事の冒頭で紹介した「戸塚の血の雨」のエピソードを思い出した。
明治初頭、大山詣りの帰路に東京の石屋連と横浜の裁縫連が大喧嘩となったきっかけの場所が、『横浜開港側面史』によれば「貝殻坂」だったからだ。この坂こそ、人力車と駕籠のデッドヒートの末、東京組の人力車が転覆した現場だったのか?
大山詣りのあと、鎌倉での物見遊山を楽しんでから戸塚へ至ろうとしたなら、このルートは十分納得できる。
などと妄想を膨らませながら坂を上ると、ほどなく「貝殻坂」バス停に到着
この辺りを頂点に、坂はなだらかな下りに変わる。
そして下りきった先に飯島交差点が現れる
吉田道はこの交差点を越えて、さらに南へと進む。
しばし緑に目を癒されて
そういえば今回の古道歩きは、ここまで川沿いも線路沿いも旧道も、自然とはちょっと縁遠い景色が続いてきた。飯島交差点を過ぎると、その様相に少し変化が起きる。
左手の住宅地の向こうに「飯島市民の森」が見える
森を横目にしての道中は、この先しばらく続く。
その間には森に通じる「飯島せせらぎ緑道」の入口があったり
時に畑が広がる光景に出くわしたり
古道歩きの旅人の目を少し癒してくれる。きっと昔は、この辺りはこうした光景がいっぱいだったのだろう。
とはいえ足元の道自体は日差しがまぶしいアスファルトが続く
やがて左角に「スギ薬局」がある飯島跨線橋入口交差点にたどり着く
ここで道は二又に分かれ、県道203号線(=吉田道)は左に大きくカーブして続く。
曲ってすぐの交差点右側に立つ電柱に「般若院」の案内板を見つける
左折して般若院(はんにゃいん)に立ち寄ることに。
しばらく歩くと右手に般若院の門柱が現われた
ここは創建から700年近い真言宗の寺院で
境内入り口に、首なし地蔵(左から二番目)はじめ古色を湛えた石塔が並ぶ
また般若院のそばには、吉田道から長い参道が続く三嶋神社がある
江戸時代初期に創建された飯島村の鎮守社だ。
社殿に通じる階段前の立派な石灯籠2基の裏には
出羽三山碑・二十三夜塔・堅牢地神塔など背の高い石塔が整然と並んでいた
しばらくじっと眺めていたくなる、味わい深い場所だった。
三嶋神社を過ぎるとまもなく、吉田道はJR根岸線高架橋と交差する
この付近の路傍に馬頭観音塔が残ると事前資料にあったのだが、かなり探してみたものの見つからなかった。どこかに移設されたのだろうか。
ガード下の向こうのちょっと残念?な道の先に…
根岸線ガード下をくぐると、古道歩きの身としては少々物足りない道が続く。
これといった史跡もない住宅地にはさまれた県道をひたすら南下
歩道もなく、でも交通量はそこそこあるアスファルトの道。だが、そこをテクテク歩きながら、ふと思った。この道は、地域住民にとっては、大船~戸塚間を結ぶ大切な生活道路なのだ。
やがて道の先に「しまむら」の看板が見えてきた
「しまむら」を通り過ぎた辺りで、橋に差しかかる
「新橋」である。「にいはし」と読む。
橋の下を流れる河川は「いたち川」
「鼬川」とも「㹨川」とも書く。
川べりにはいくつもイタチの絵がある(なぜかムーミンもいるが)
とはいえ、ここが「いたち川」と名付けられた由縁は、動物のイタチがいるからではない。鎌倉時代、ここが武士たちが東国各地へ「出で立ち」する要所だったのだ。「出で立ち」が転訛して「いたち」になったという。
鎌倉武士にとっての出立(しゅったつ)の場は、吉田道にとっても、古道としての要(かなめ)の地点だ。
それを証すように橋のたもと左手には延命地蔵の祠が建ち
祠の右隣りには道標が残る
上の写真の正面には「從是とつ加道」と大書され、小さく「左とつかミち」とある。また、この右側面には「從是ぐミやうじ道」と刻されている。
写真の面が示す方向は、ここまで戸塚から歩いてきた吉田道だ。そして右側面が示す方向は、ここから北東へ続く鎌倉道(かまくらみち)の中道(なかつみち)だ。
つまりここ新橋は、吉田道と鎌倉道中道との分岐点であり、逆の見方をすれば、この先南下する吉田道は、ここから鎌倉道中道と合流することになる。
橋のたもとから、来た道を振り返る
左の道がここまで歩いてきた吉田道、右の道が鎌倉道中道。
ふたたび踵を返すと、ここから吉田道は鎌倉道中道と合流し鎌倉へと進む
吉田道前編はこの大きなポイントで区切りをつけることにしよう。
長沼交差点から新橋までは2.1kmほど。徒歩30分弱の距離だ。下のマップの赤いラインがその行程。オレンジのラインは新橋から分岐する鎌倉道中道の方向を表す。
(© OpenStreetMap contributors)
そして下のマップの赤いラインが吉田道前編の全行程である。
吉田道のみの総距離は5.3kmあまり。頑張れば1時間半足らずで踏破できてしまうが、その頑張りはあまりおすすめしない。あっちへふらふら、こっちへふらふら、それが古道歩きの醍醐味なのだから。
(© OpenStreetMap contributors)
取材を終えて
ここまでの吉田道は市中のコンクリートとアスファルトに囲まれた道筋が大半。「柏尾通り大山道」のような豊かな田園風景に抱かれた旅路とはだいぶ異なる。
だが、その中で立ち寄った寺社で出合う石塔の数々は、古道歩きの旅人の心を大いに沸き立たせるものだった。むしろ「市街地の中でもちょっと脇道にそれれば、こんなにも豊かな歴史に出合える」という印象を再認識させてくれる道中だったとも言える。
この先は大船の繁華街を経て、いよいよ数多ある史跡を堪能できる鎌倉・山ノ内をたどる行程となる。これまでとはまた様子が一変しそうな予感を胸に、次回も乞うご期待のほどを!
―終わり―
取材協力
横浜市中央図書館
住所/横浜市西区老松町1
電話/045-262-0050
開館時間/火~金9:30~20:30、その他9:30~17:00
https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/kyodo-manabi/library/tshokan/central/
※感染症対策のため開館時間や休館日、利用方法などを変更している可能性がございます。詳しくは公式HPをご確認ください。
参考資料
『横浜の古道』横浜市教育委員会文化財課編集・発行(1982年3月刊)
『横浜の古道(資料編)』横浜市文化財総合調査会編集、横浜市教育委員会文化財課発行(1989年3月刊)
『とつか歴史探訪』戸塚見知楽会編集・発行(2011年11月刊)
『改訂版 ステップ栄 歴史探検帳』本郷郷土史研究会編集、栄区役所総務部地域振興課発行(1994年11月刊)
『さかえkuさんぽ』横浜市栄区発行(2016年9月刊)
『中世東国史の中の 鎌倉古道』蜂矢敬啓著、高文堂出版社発行(1997年5月刊)
『横浜開港側面史』横浜貿易新報社編集・発行(1909年6月刊)
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目玉の親父さん
2022年01月30日 07時46分
いたち川の看板はムーミンではなくて横浜市環境創造局のマスコット、かばのだいちゃんですね。マンホールの蓋とかにもおります。可愛がってあげてください。
chokoさん
2022年01月21日 20時46分
いつも沢山の写真と詳しい記事を拝見するのを楽しみにしております。有難うございます。いたち川は、地元民に人気のある散歩道です。
Yang Jinさん
2022年01月21日 17時19分
またまた良く調べられましたね!細かく素晴らしい観点です〜