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都筑区の大塚・歳勝土遺跡から弥生時代にワープ!

都筑区の大塚・歳勝土遺跡から弥生時代にワープ!

ココがキニナル!

開港からの横浜の歴史も面白いのですが、もっと昔、とても昔のことを知りたいです。横浜で恐竜の化石や古代の土偶、その他とても昔の物が出たりしないのでしょうか?(mmyyggさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

出たりします!横浜市内にも多くの古代遺跡がこれまで発掘されているが、今回はその中の弥生時代の代表的な集落遺跡として全国的にも有名な都筑区の「大塚・歳勝土遺跡」に焦点を当てよう。

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ライター:結城靖博


横浜市内で発掘された太古の遺跡については、かつてはまれぽでも磯子区にある「三殿台(さんとのだい)遺跡」についてレポートしている。この遺跡は縄文時代から古墳時代までの大規模集落遺跡として国史跡に指定されているが、詳しくは過去記事に譲ろう。

今回は、この三殿台遺跡と同じく国史跡に指定されている都筑区の「大塚・歳勝土(おおつか・さいかちど)遺跡」を取り上げたい。

なお、大塚・歳勝土遺跡に関しても、過去記事で紹介したことがある。ただその記事の中では、ブルーライン・センター北駅周辺の港北ニュータウン開発の一部として取材しているので、今回は三殿台遺跡の記事同様、バチッとこの遺跡をテーマの中心に据えてまとめたい。



大塚・歳勝土遺跡はどこにある?





大塚・歳勝土遺跡の場所


上のMAPでわかる通り、場所は市営地下鉄ブルーラインのセンター北駅のすぐ近くだ。


センター北駅周辺


取材時は週末。あいにくの雨模様の天気だったが、センター北駅周辺は、いかにも港北ニュータウンの「センター」らしく、多くの人でにぎわっていた。

ここからおよそ4、5分歩くと、横浜市歴史博物館に到着する。


横浜市歴史博物館を正面に臨む


大塚・歳勝土遺跡は、この博物館の隣に併設する野外施設として位置づけられるのだが、成り立ちを思えばむしろ大塚・歳勝土遺跡が発見されたからこそ、この場所に博物館が誕生したともいえる。



ではでは、その遺跡を訪ねてみよう!






博物館に向かって左の道を進むと、頭上の歩道橋に通じる階段がある



階段を上ると歩道橋の先に、こんもりとした森が姿を見せる


「大塚・歳勝土遺跡」はこの森の中にある。

現在、この遺跡の場所は、「大塚・歳勝土遺跡公園」として整備されている。

戦後の高度経済成長期を経て、1970年代初頭、横浜では港北ニュータウンの大規模開発が計画される。その開発にさきがけた事前調査の過程で発見され、1972(昭和47)年から発掘調査が始まったのが「大塚遺跡」と「歳勝土遺跡」だ。

その後、この2つの遺跡がきわめて貴重な弥生時代中期の集落遺跡であることが判明し、1986(昭和61年)年に国史跡に指定される。

これによって遺跡周辺の保存整備が進み、1995(平成7)年に遺跡が隣接する場所に横浜市歴史博物館が開館、さらに翌年「大塚・歳勝土遺跡公園」が開園したのだ。


遺跡公園の入り口


中央に園内の案内図が掲げられ、左右にマンガや写真で一般の人にもわかりやすく弥生時代の集落の様子を伝える説明板が設置されている。


中央の案内図


図によれば、どうやら左手に進むと「大塚遺跡」があるようだ。


入り口から左手を望む。森が深い



竹林の中のつづら折りの坂道を上っていくと



やがて左手に大塚遺跡が見えてきた


遺跡の入り口を正面から臨む


中へ入ると、広すぎて1枚の写真では収まりきらないので、左右に分けてお見せしよう。


こちらが入ってすぐの左側の景色



こちらが右側



入ってすぐ左手には濠と木橋がある


上の写真の濠(ほり)こそ、大塚遺跡にとって重要な存在なのだ。大塚遺跡は、弥生時代に多く存在した「環濠(かんごう)集落」跡の全体像が、ほぼ完全な形で発掘できたことに大きな意義があった。

環濠集落とは、竪穴式住居と高床倉庫からなる集落の周辺にぐるりと濠を掘って、集落の居住空間全体を囲んだ集落のことだ。


大塚遺跡が発掘された当初はこんな感じだ


ソラマメ状の形態をした集落を、ぐるりと濠が囲んでいる。

では、なぜ?そこに縄文から弥生への人類の進化の(ある意味悲しい)歴史が隠されているのだ。が、その核心部分については、このあと併設する横浜市歴史博物館でじっくり読み解くとして、とりあえず今は、目の前に「復元」されている弥生時代の集落を鑑賞するとしよう。


濠と木橋のすぐそばにあるのは「型取り復元住居跡」


発掘調査時の住居跡の構造を伝えるべく遺構面を再生したものだ。この日みたいに雨が降ったらドンドン形が崩れていってしまうのではないかと心配したが、実は特殊加工したガラス繊維強化樹脂セメントでつくられていたのだった。


そして、なんといってもこの敷地内のメインは、これ


現在、遺跡公園には竪穴式住居が7棟復元されている。


その中の1棟に入ってみた


ストロボをたいて撮影したのでこんな風に写っているが、実際のところ中は真っ暗だ。柱の立派さに感心する。

それと、この日雨が降ったことはちょっとラッキーとも感じた。こんな時、竪穴式住居内はどんなことになるのかと案じたのだが、屋内ではまったく外の雨を感じなかった。


その理由の一つは、やはりこの分厚く堅固な茅葺の屋根にあるのだろう



それによく見ると、外部の地面との境界に盛土が施されており



内部にも居住空間との間に溝が掘られている


こうした繊細な設計が、竪穴式住居の外部からの水の浸入を防いでいたのかもしれない…などと、素人なりに想像をめぐらすのだった。


竪穴式住居のほかに、大塚遺跡にはこんな建物も復元されている


竪穴式住居とともに社会科の教科書でおなじみの「高床式」の掘立柱建物。これは集落で共有する穀物等の「倉庫」だったと考えられている。




続いて、歳勝土遺跡へ





大塚遺跡を出て左の小道を歩いていくと、こんな場所がある。


雨のためにかなり泣ける映像なのだが



これは「大塚・歳勝土遺跡周辺地形模型」なのだ


ここを左手に見てさらに進むと、


現れました、歳勝土遺跡


この遺跡は、大塚ムラで暮らしていた人々の集団墓地だ。墓の形態は「方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)」と呼ばれる。

四角く溝を掘って、その掘った土で溝に囲まれた内側を盛土し、中央に死者を埋葬したという。弥生時代に主流だった埋葬形態だ。だが、実際の歳勝土遺跡に足を運んでも、遺跡の規模は実感できるものの、地上目線ではなかなか墓の形の全貌が把握できない。


けっこう深い溝だったんだなぁ、とか


かつてあったお墓の周囲を石で型取って残しているので


整然と配置されていたんだなぁ、などと思いつつも



「展望台があったら、もっとわかりやすいだろうなぁ」とも思ったりする



ただ、敷地内には発掘時の航空写真や



詳しい図入りの説明板などもあるので


これらと重ね合わせながら、想像力をたくましくして目の前の遺跡と向き合う。

とは言うものの、遺跡の前にいつまでも立っていても、キニナル投稿者のmmyyggさんが望む「とても昔の物」、つまりこの場所から発見された出土品が見られるわけではない。

それらは今、隣接する横浜市歴史博物館に保存・展示されているのだ。そこで、この先は同館を訪ねることに。

なお、公園内には江戸時代の民家を移築した「都筑民家園」もあるが、今回の取材対象からは外れるので、また別の機会に紹介できればと思う。




原始時代から現代までの横浜を楽しく学べる横浜市歴史博物館





横浜市歴史博物館は外観同様、建物の中も立派だ。


広々とした吹き抜けのエントランス


その2階に企画展示室と常設展示室がある。企画展示室では取材時、鉄道開業150周年を記念した企画展が開催中だった。


企画展示室入り口


企画展示室を左手に見てさらに館内の奥へ進むと、常設展示室がある。


常設展示室入り口


常設展示室の中は、かなりユニークな構造になっていた。中央に円形のスタディサロンがあり、その周囲をぐるりと囲むように「原始Ⅰ」「原始Ⅱ」「古代」「中世」「近世」「近現代」と6つの時代別の展示コーナーが並んでいる。


この日スタディサロンでは、企画展にちなみ鉄道模型が展示されていた


時代別の展示コーナーを一通り巡れば、横浜の太古から現代までを学ぶことができる。しかも、各コーナーの中央にはその時代を象徴する巨大なオブジェが目を引き、思わず展示室内に足を向けたくなる。


たとえば「原始Ⅰ」(先土器時代~縄文時代)には、こんなものが


なんだか映画『2001年宇宙の旅』の謎の物体「モノリス」を連想させるが、これは横浜市内の代表的な縄文時代のムラの一つ「南堀(なんぼり)貝塚」の大型模型だ。


あるいは「近世」のコーナーには、こんなジオラマが


これは神奈川宿のにぎわいが窺える茶屋「桜屋」の様子を再現したものだ。

こうした中央の模型を囲むように置かれたさまざまな展示品も含めて、とにかく楽しく見せようという工夫に溢れた空間だ。おそらくひとたびこの中に入ると、一日があっという間に過ぎていってしまうのではないだろうか。




大塚・歳勝土遺跡の時代が展開する「原始Ⅱ」コーナー





以上、ざっと主だった館内の様子を見てきたところで、いよいよ本題の大塚・歳勝土遺跡の世界が広がる展示空間を仔細に見ていこう。今回、案内していただいたのは、同館学芸員の橋口豊(はしぐち・ゆたか)さんだ。


親切丁寧に展示物を解説してくれた橋口さん


実は橋口さんは、以前「三殿台遺跡」の記事で取材に応じていただいた方でもある。10年前の当時は「横浜市三殿台考古館」に勤めていらしたのだ。なんという奇遇。


大塚・歳勝土遺跡の世界は「原始Ⅱ」のコーナーに広がる



その空間の中央に、ドーンと大塚・歳勝土遺跡のジオラマが横たわっている


遺跡発掘当時の光景を再現したものだ。ということは、港北ニュータウンが開発される直前の、今から約50年前の当地の様子を見ているということでもある。そう考えると、なんだかまた別の意味で感慨深い。


歴博と遺跡公園をつなぐ歩道橋の上から望む現在の景色


右手に見える森が遺跡公園、中央を走るのが「歴博通り」と呼ばれるニュータウン開発とともにできた幹線道路、そして左手が大規模複合商業施設「ノースポートモール」だ。

ところで、現在公園で見られる遺跡は、発掘当時のものがそのまま保存されているわけではない。実は、「大塚遺跡」も「歳勝土遺跡」も、遺構を保護するために発掘した場所をいったん埋め直し、さらに1メートルの盛土をしたうえで、その上に復元したものなのだ。

「いわば実物の遺跡は保存のために『パック』したわけです」と橋口さんは言う。だが、住居や環濠などは、実際の遺構の真上に復元しているそうだ。


しかし、集団墓地の歳勝土遺跡は全域が公園内に残っているが



環濠集落の大塚遺跡は、このソラマメ状の発掘現場の3分の1ほどしか残されていない


弥生時代といえば稲作が開始された時代だ。縄文時代の終わり頃大陸から伝わった水田稲作技術が、西日本から徐々に東へと広がっていった。

北九州には名高い「吉野ケ里(よしのがり)遺跡」がある。大塚・歳勝土遺跡は、この遺跡と比べれば規模も小さく、時代も新しい。南関東地方に稲作文化が伝わったのは弥生時代中期、横浜市域はさらに遅く中期後半とされる。

だが、「環濠集落」という弥生時代を代表する集落形態と、それに付随する「方形周溝墓」という集団墓地の全体像が、初めて一体となって明らかにされた「大塚・歳勝土遺跡」の学術的価値はきわめて高いという。

遺跡からは、住居跡や環濠、あるいは方形周溝墓の溝の中などから、多くの出土品も発掘されている。


こちらは大塚遺跡で発見された土器だ



展示室には同遺跡以外の場所から発掘された出土品も多数展示されている


その多くは煮炊き用の甕(かめ)や貯蔵用の壺、あるいは食物の盛り付け用の高坏(たかつき)や鉢など、実用性の高いものだ。


また、農耕に欠かせない木製の鍬や鋤や(一部鉄製もあり)



それらの農具をつくるための石斧類もある(左端に見えるのは当時貴重だった鉄製斧)


大塚・歳勝土遺跡は鶴見川の支流・早渕川(はやぶちがわ)の近くに位置するが、鶴見川水系は、この遺跡のほかに弥生時代の著名な遺跡が川筋に沿った台地に数kmおきに点在している。周辺は南関東の中でも、特にこの時代に集落が発展した場所だったのだ。

ここに展示されている多くの出土品が、当時の鶴見川水系の文化の豊かさを伝えてくれている。

また、「原始Ⅱ」の展示コーナーには、こんな素敵な展示物もある。


当時の集落の様子を再現したジオラマだ


近づいて見ると、


これはムラ長(おさ)の住居内



その住居前では人々のさまざまな営みが


斧を手入れする人、土器を焼く人・運ぶ人、高床式倉庫の前で米を脱穀する人、新しい住居を建てている人・・・。


この住居の入り口では機織りをする人も



この人は集落の外の森で伐った木材を担いで環濠の木橋を渡っている



そして集落の外には方形周溝墓に棺を埋葬している人々が


このジオラマと遺跡公園に復元された実物大の建造物や墓を重ねてみると、約2000年前の世界が鮮やかによみがえってくるようだ。

ただし、遺跡からは建屋自体の遺物は発掘されていないので、建物の形状などはあくまで他所の遺跡に残されたモノや素朴な絵画その他の考古学資料にもとづいて復元されたものだ。

「発掘されていない」といえば、もう一つ大きなものがある。それは、弥生時代の象徴ともいえる「水田」だ。実は、大塚・歳勝土遺跡だけではなく、横浜市全域で、いまだにこの時代の水田跡が見つかっていないという。だが、大塚遺跡の住居跡や環濠からは炭化した米が発見されているので、稲作が行われていたことは確かなようだ。


手前左端が大塚遺跡で発見された炭化米


それにしても、そもそも弥生時代になぜ集落を濠で囲み、そればかりか濠の外縁には土塁を盛り、木柵をめぐらせたのだろう?

それは、この「原始Ⅱ」コーナーのサブタイトルが、いみじくも示唆している。


「稲作と争いのはじまり」


水田稲作技術が発展拡大するとともに、そこに収穫物や耕地などの「財産」が生まれる。財産ができれば、それをめぐる集団間での争いも生じる。

狩猟中心のいわば「その日暮らし」だった縄文人の時代にはほとんど見られなかったこの争い(=戦争)から、集落を守るために環濠がつくられたといわれる。


展示室に掲げられた弥生人の生活カレンダー


この日常の中に、「争い」も差し挟まれていたということになる。

大塚遺跡の竪穴式住居跡を調べていくと、大塚ムラ集落の存続期間はわずか数十年だったと想定されるらしい。それは、当時の集落としては驚くほど短い歳月だった。

また、竪穴式住居跡85軒(建て替え等含めると延べ115軒)のうち、39軒に火災の痕跡が見られるという。他の集落との戦乱の結果、廃絶してしまったのではないかと考える研究者もいるそうだ。

21世紀になってもなお愚かな戦争を繰り返す人類を目の当たりにする今だからこそ、考えさせられることの多い展示空間でもあった。





取材を終えて





港北区・緑区・青葉区・都筑区――横浜市北部4区の文化施設が今、地域の文化遺産と市民とをつなぐ「よこはま縁むすび講中」なる取り組みを行っている。

横浜市歴史博物館でも、その取り組みの一環として、橋口さんたちを中心に「かやぶき屋根プロジェクト」を実施している。遺跡公園内に復元された竪穴式住居の茅葺屋根の修繕を、市民ボランティアとともに継続的に行っていこうというプロジェクトだ。

太古の先人の知恵を学び、貴重な文化財に触れられる機会として、多くの参加者から喜ばれているそうだ。関心のある方は、ぜひ横浜市歴史博物館に問い合わせてみてほしい。


―終わり―

取材協力

横浜市歴史博物館
住所/横浜市都筑区中川中央1-18-1
電話/045-912-7777
開館時間/9:00~17:00 ※大塚遺跡を除く公園部分は24時間オープン
休館日/月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始
常設展示観覧料/一般400円、高校生・大学生200円、小学生・中学生ならびに横浜市内在住65歳以上100円
※団体は割引あり
※大塚・歳勝土遺跡公園は無料

参考資料

『大塚・歳勝土遺跡 国史跡』横浜市歴史博物館編集・発行(2004年刊)
『弥生の人びとが眠る場所』横浜市歴史博物館編集・発行(2006年4月刊)
『開港150周年記念 横浜 歴史と文化』横浜市ふるさと歴史財団編集、高村直助監修、有隣堂発行(2009年6月刊)
『横浜に稲作がやってきた!?』横浜市歴史博物館ほか編集、同館発行(2017年9月刊)
『図説 都筑の歴史』『図説 都筑の歴史』編さん委員会編集、都筑区ふるさとづくり委員会発行(2019年11月刊)
横浜市歴史博物館展示解説シート「環濠集落の時代」「ムラの中のくらし模型」

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  • このお寺について本当に有益な投稿をありがとうございます。 本当にここに行きたいかどうかは分かりませんが、写真ではなく実際に見たら素敵です。

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