戦後、横浜にもあった「外食券食堂」の歴史が知りたい!
ココがキニナル!
戦中戦後の時代は「外食券」がないと外食ができず、当時は外食券が使える食堂を「外食券食堂」と呼び、六角橋の「末廣園」が今でも営業を続けているという。当時のことを取材出来ないの?(ねこぼくさんにキニナル)
はまれぽ調査結果!
牧場を営む一家の副業だったミルクホールが戦後、外食券食堂「厚生食堂」を開いた。制度終了後に「末廣園」として再出発し、今も地元で親しまれている
ライター:阿良川 遊
「外食券食堂」とは?
外食券食堂って何? という人も多いだろう。60代以上の読者にとっては懐かしい響きかもしれない。
第二次世界大戦の最中、絶対的な食糧難だったこの時代、国は国民に食糧と交換できる「米穀配給通帳」を発行し、これがないと食料を手に入れることができないよう、食糧統制を行った。このシステムを「米穀配給通帳制」といい、その通称が「配給」である。
戦後間もなくの白楽駅前(c)神奈川大学デジタルアーカイブ
もっとも、市民は自分で野菜や穀物を栽培したり、動物や魚を獲ったり、あるいは闇市で仕入れたり・・・配給に頼らない食糧確保の手段を、皆こっそりと心得ていた。
外食券も同じく、当時の食糧難に端を発する。1941(昭和16)年春から、この配給制度と同時に「外食券制」という制度が敷かれ、家で食事をしない人を対象に、外食10日分(米約4kg相当分)を外食券として発行したという。
「外食券の取纏(とりまとめ)に関する通知」。昭和16年4月24日と明記されている(国立公文書館蔵)
券を持参しなければ外食をすることはできず、食堂やレストランなどで食事をする機会は制限されたのだった。外食券制は終戦をまたいでしばらくの間、続いていたという。
横浜在住の年配の方に聞くと、ほかに「崎陽軒」などが当時、外食券食堂に指定されていたという。
「末廣園」でお話をうかがう
当時のことを聞いてみようと、末廣園を訪ねた。東急東横線・白楽駅西口から六角橋商店街を歩ききって左折、西三商興会に入って少し進むと「末廣園」は見えてくる。
この先に末廣園はある
アーケードの切れ目部分にたたずむ和食店。かなりの年数に渡って営業しているとのこと。店の入り口は品良く、店内もお客さんがくつろげる雰囲気を作ろうとしているのが伝わってくる。
お店は横断歩道の手前
取材に応じてくれたのは店主の鈴木喜也(よしや)さん。
鈴木喜也(右)さんと息子さん
末廣園のルーツは、1906(明治39)年まで遡る。「俺(=喜也さん)の父親は1906(明治39)年生まれなんだけど、ここで生まれて、ここで死んだんだ。ということは、明治39年にはここでやってたってことだよね。(先祖がここで商売を始めたのは)100年かそこらだと思う」
当時ここは、房陽舎(ぼうようしゃ)という牧場だったという。鈴木さんはこの牧場の長男として生まれた。(房陽舎の情報についてはこちら)
「牧場経営と一緒に“房陽舎ミルクホール”っていう喫茶店みたいな店をやってて、牛乳とパンを提供していた。(自分の牧場に)牛がいたから、産直でね」。
神奈川大学の学生紙「横専学報」(1939.7.10発行)に掲載された「房陽舎ミルクホール」の広告
(c)神奈川大学デジタルアーカイブ
しかし、1945(昭和20)年5月の横浜大空襲で牛舎や馬・牛が全部燃えてしまう。鈴木さん一家も、半年ほど疎開した。
鈴木さんは1941(昭和16)年、真珠湾攻撃の時期に生まれたという。終戦当時まだ3歳、戦争の記憶はない。
「終戦になってまず、おやじは馬を飼ったんだよ。それで馬にリヤカーをつけて荷物を運ぶ運送会社みたいなことをやっていて、それから牛も買って、牧場を再開した。1948(昭和23)年くらいまでは牛が5~6頭いたよ。だけど、周りから苦情がすごくてね。“臭い”とか。で、(牧場を)やめちゃったの」。