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中区関内で30年以上店を構えるジャズレストラン「BarBarBar」とは!?

ココがキニナル!

横浜JAZZ協会会長で横浜スタジアムの球団誘致のために奔走した鶴岡博さんと関内の老舗ジャズレストランBarBarBarの気さくな店長を取材して(brooksさん/アルミンさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

横浜とジャズへの情熱を傾ける鶴岡さんの理想と愛が詰まったジャズレストランBarBarBar。関内で本格的なJAZZライブと食事が楽しめる。

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ライター:はまれぽ編集部

JAZZ/ジャズ・・・19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカ南部で広まった音楽。
耳にすれば「ジャズっぽい」というのは分かるものの「ジャズとはなにか」と問われれば言葉に詰まる。

そんな筆者が今回訪れたのはJR関内駅から徒歩5分ほど、多くの飲食店が軒を連ねる中区相生町(あいおいちょう)にある、横浜屈指の人気ジャズライブレストラン「BarBarBar(バーバーバー)」だ。
 


雰囲気のある外観が出迎えてくれる
 

NIKKEIプラス1掲載の「女性におすすめのJAZZスポット」ランキングで堂々の全国8位!


扉の脇に貼られたポスターにはNIKKEIプラス1のポスター。東京の名店ブルーノートやコットンクラブが名を連ねる中、BarBarBarの名が! しかも横浜で唯一ランクインしている模様。これはつまり横浜で1位のお店ということになる・・・スゴイ!

早速店内に進む。こちらはバースペースへの入り口で、2階にあるライブスペースに直接向かえる入り口も別にある。
 


こちらがその入口


1階の扉を開くとそこはあまりにも渋いバーカンターが。
 


スコッチやバーボンなどさまざまなお酒が並ぶ


落ち着いた内装と照明、きらびやかなお酒のボトルを見ているだけでなんとも言えない高揚感が湧いてくる。



ジャズにハマスタ・・・さまざまな顔を持つ人物


 


「よく来たな」と言わんばかりに、にこやかに出迎えてくださった


奥のテーブルで待つ一人の紳士・・・この方がキニナル投稿にも寄せられていた鶴岡博(つるおか・ひろし)さんだ。鶴岡さんは横濱JAZZプロムナードを主催する横浜JAZZ協会の理事長であり、BarBarBarのオーナーでもある。つまり、この夢の様な空間は鶴岡さんが創りあげたもの、ということだ。

まず、鶴岡さんがどういった人物であるかを伺う。

1939(昭和14)年10月19日生まれ。幼少期を日ノ出町で過ごし、その後も横浜で青春を謳歌し人生を歩んできた。若葉運輸最高顧問、若葉商事社長、横浜スタジアム前社長、横濱JAZZプロムナード実行委員会事務局長、横浜JAZZ協会理事長、日本JAZZ協会21会長といったさまざまな顔をもっている。
 


1996(平成8)年の横濱ジャズプロムナードのポスターと


この経歴の中で筆者の目を引いたのは横浜スタジアムの前社長という肩書。

運送会社の2代目であった鶴岡さんは、今から37年前の1978(昭和53)年に大洋ホエールズ(現在の横浜DeNaベイスターズ)の横浜への移転話があった際、その資本金として必要な20億円をわずか2週間で集めた発起人であった。その後、横浜スタジアムが横浜の象徴として愛され続けていることは説明不要だろう。
 


連日、多くの人が訪れる横浜スタジアム


「横浜を盛り上げたい」という想いを原動力に、その偉業を成し遂げた鶴岡さんはその後、2000(平成12)年~2014(平成26)年まで横浜スタジアム社長として腕を振るった。


 

鶴岡さんとジャズ



鶴岡さんと横浜スタジアムとの関係性を知った今、次にキニナルのは鶴岡さんとジャズとの関わりだ。そこでまず「いつからジャズに興味を持ったのですか」と尋ねると、意外な答えが帰ってきた。
 


「これがジャズだ! ・・・と聴いていた感覚はなかったね」


鶴岡さんが小学生のころ、若葉町には米軍の飛行場・滑走路があったそうだ。
鶴岡さんは飛行機を見るために足を運んでいたが、その飛行場から流れてきた音楽こそジャズだった。
 


当時あったという伊勢佐木(若葉)飛行場(横浜市史資料室)


「その当時はジャズだとは気づいてなかったよ」
想い出の中にある最初のジャズは、ただ飛行場から流れてきた音楽。ジャズという認識はこの時にはなかったとのこと。

中学生となった鶴岡さんはアメリカ映画、洋画と出会う。そして当時の洋画で流れていた音楽がスウィング・ジャズだった。この時も鶴岡さんの中では「ジャズというジャンルではなく、アメリカ映画で流れている音楽」でしかなかったそうだ。

しかしその後も鶴岡さんはジャズに触れていく。
 


「若い時は女の子と遊ぶための道具でもあったな」


少し照れながら、鶴岡さんは続ける。青年と呼ばれる年代に差し掛かってきたころ、フルバンドがジャズを演奏するナイトクラブは若者たちの社交場だった。
鶴岡さんもナイトクラブでジャズを聞き、踊りに興じ、女の子との出会いを楽しむ・・・そういった青春を謳歌していたそうだ。
 


ナイトクラブで演奏していたバンドのイメージ(フリー画像)


鶴岡さんが好きだったのは南里親子やレイモンド・コンデのフルバンド。往年の名演奏について語る鶴岡さんの瞳は少年のような輝きを放っていた。

ただ、それでもジャズは「女の子と遊ぶため、楽しむためのもの」という感覚でしかなかったとも口にされた。ジャズは難しいものでも特別に意識するものでもない。「常にそばにあったもの」「ただ好きなもの」そう鶴岡さんが語っているように感じた。

小学生のころ、飛行場で耳にした音楽。中学生となり映画から流れてきた音楽。青年期を彩った音楽。それがジャズだった。ああだこうだと難しい薀蓄を語るようなものではなく、ただ、純粋に心地よいもの、それが鶴岡さんにとってのジャズなのかもしれない。

そして、2015年10月10・11日に鶴岡さんが会長を務める横浜JAZZ協会と横浜市芸術文化振興財団ジャズプロムナード実行委員会が主導する「横濱JAZZプロムナード2015」が開催される(※日付指定の前売り券は1日ひとり券で4300円。ペアで8000円。ひとり両日券8000円)。

1993(平成4)年から始まった横濱JAZZプロムナードは今年で23回目を迎えた。
 


2011(平成23)年の様子。多くの人がジャズを楽しんだ


鶴岡さんが横浜のジャズを盛り上げるために精力を注ぐ横濱JAZZプロムナードは国内外、プロからアマチュアまで約3000人が出演する横浜の秋の風物詩。この日、横浜はジャズ一色に染まるのだ。