【横浜の名建築】明治を代表する偉人が愛した 旧伊藤博文金沢別邸
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横浜にある数多くの名建築を詳しくレポートするこのシリーズ。第10回は、旧伊藤博文金沢別邸。明治時代を代表する政治家の伊藤博文は金沢の地を愛し、格式の高さと武家の慎ましさをあわせもつ別邸を残した。
ライター:吉澤 由美子
横浜市金沢区の野島公園に、伊藤博文(いとうひろぶみ)の別邸がある。
伊藤博文は、長州藩士として明治維新に大きな役割を果たし、明治政府樹立後は政治の中心で活躍。
憲法を作り、初代を含め4回に渡って総理大臣を務め、近代日本の基礎を固めた政治家だ。
ひなびた暖かみの中に風格を漂わせている
明治31年、金沢の地を愛した伊藤博文は、野島に金沢別邸を建設。
茅葺寄棟(かやぶきよせむね)屋根の田舎風海浜別邸建築は、当時、別荘地として栄えた金沢に現在も残る数少ない建築遺構だ。
表から眺める美しい茅葺屋根もみどころ
この建物は、その歴史的価値から平成18年に横浜市の指定有形文化財となり、解体・調査を経て、平成21年に創建当時の姿に復元された。
案内いただいたのは、野島公園事業所の所長である澁谷光男さんと、旧伊藤博文金沢別邸担当の高坂恵美さん。
掘りごたつの畳を上げ、雨戸の開け閉めなどを見せてくださった澁谷さん
伊藤博文が金沢に残したエピソードや政治家としての功績を教えてくださった高坂さん
海の方から眺めると、芝生と松が建物をより清々しく見せている。創建時の松も多く残る
皇族方を迎えた格式と、高潔な人柄を偲ばせるたたずまい
この別邸は、大正天皇や東宮時代の昭和天皇もいらしたことがある由緒ある建物。
贅を尽くした華美さはなく、感じるのは凛とした格式の高さと、武家屋敷に通じる慎ましさ。簡素でひかえめな装飾から、賄賂どころか蓄財にも興味を持たなかった伊藤博文の高潔な人柄が伝わってくる。
居間棟から中庭を通して玄関の方を眺める。くつろぎの空間らしい風情
政治的な手腕はもとより、陽気な性格も慕われた伊藤博文はまた、女性好きとしても名をはせた。
しかし、まだ女性の教育水準が低かった時代に女子教育を充実させるために奔走するなど、女性のために尽くした一面もうかがえる。
女中部屋にも掘りごたつ用の炉があるなど、この別邸でも女性に対する優しさを感じた。
賓客をもてなすための客間に込められた心遣い
玄関前には左右に大きな松。今は背が高くなってしまっているが、創建時にはきっと低い松を両側に従えた入口だったのだろう。
伊藤博文はお正月などに、「これが本当の門松だ」と冗談を飛ばしたかもしれない
建物は、客間棟、居間棟、台所棟の3棟からなり、格式の高い客間を海側の眺望のよい位置に張り出し、ほかの棟を廊下でつなぐ雁行(がんこう)という配置になっている。
客間棟でもメインとなるのが、「晴嵐(せいらん)の間」、奥座敷である「帰帆(きはん)の間」。
12畳の晴嵐の間と12.5畳の帰帆の間を開け放つとその違いがよくわかる。
障子の幅は開口部の広さに合わせて変えてあり、天井も柾目と板目と意匠が違う
間をつなぐ板欄間は鳳凰の彫刻
襖の引手金具には、小さな龍の意匠
欄間(らんま)や引手金具などは創建当時から伝わっているもの。
広縁の先はガラス戸。板ガラスは創建当時日本では生産できなかったため、ベルギーから船で運ばれた。
今でも手吹きらしいゆがみや気泡の入った部分は、創建時のガラス。
帰帆の間には、二間半という大きな床の間があり、ケヤキの一枚板が床板として使われている。
床の間と横の附書院(つけしょいん)は無駄な装飾を省いた静謐(せいひつ)なたたずまい
上座に座った時、畳の縁が当たらないよう、特別な長い畳が敷かれている
床の間に置かれた金屏風は、伊藤博文が金沢の地で書いたもの。
蓮を君子の花とたとえた内容は、国に至誠を貫く伊藤博文の気持ちが込められている