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かつて西横浜駅界わいにあった歓楽街「新天地カフェ」とは?

ココがキニナル!

西区南浅間町にあった新天地カフェー街と周辺施設の「笹本」という旅館と公設市場。雰囲気がある周辺の歴史など調査して!(町田県民さん、自転車ちりりんさん、濱のリリーさん)

はまれぽ調査結果!

1933年に新天地遊郭が誕生。戦後は「新天地カフェ街」という慰安所になり1958年に終息。市場は1952年ごろに出来たものだった。

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ライター:橘 アリー

住宅街に点在する不思議な場所!?

以前、西区南浅間町にあったという、「新天地カフェ街」と「公設市場」。

キニナル投稿によると・・・
現在、その跡地にお稲荷さんが祀られていて、その玉垣(囲い)には「櫻井染五郎(さくらい・そめごろう)」「笹本」などの名前が刻まれており、近くに笹本旅館があって、公設市場だった貴重な建物も近くにある、とのこと。

それぞれの場所を地図で確認すると
 


赤丸の所がお稲荷さん、青丸の所が笹本旅館、黄丸の所が公設市場だった建物

 
洪福寺交差点に向かって、八王子街道(地図中央の道路)の左側にお稲荷さんと笹本旅館があり、右側に公設市場だった建物がある。
 


八王子街道の歩道から見ると、こんな感じ。道路の左右は商店や住宅が立ち並んでいる

 
さて、“新天地”“カフェ街”“公設市場”など、普段は耳にすることの無いこれら名前には、いったいどのような歴史があるのだろうか。
それぞれの関係も踏まえながら「お稲荷さん」「新天地カフェ街」「笹本旅館」「公設市場」と順を追って調べて行くことに。



神社とカフェ街の歴史は!?

まずは、「お稲荷さん」について。
『横浜西区史』によると、正式な名称は「新天地桜会稲荷神社」と言うようだ。
 


新天地桜会稲荷神社。住宅地の中にあり、小さいがかなり目立っている

 
祀られているのは倉稲魂命(うかのみたまのみこと・日本神話に登場する穀物の神)で、1932(昭和7年)に当時は芦野(あしの・荒地のこと)であった現地の埋め立てが行われ、その時に勧請(かんじょう・神様を分霊して祀ること)されたとのこと。

1882(明治15)年の『横浜実測図』で確認すると、当時荒地だった様子が見て取れる。
 


赤丸の所が新天地桜会稲荷神社のある周辺

 
この地の埋め立てを中心となって行ったのが櫻井染五郎氏である。
 


玉垣に櫻井氏のお名前を発見!

 
櫻井氏は横浜港沿岸荷役の請負人で、この地の埋め立てを行った中心人物であった。
埋め立てによって新しく出来た地域の組合は櫻井氏の苗字にちなんで「新天地桜会」(新しい土地に出来た桜会という意味合い)と名付けられ、そこに祀られた神社は「新天地桜会稲荷神社」となったようだ。

そして、資料『占領下の娼婦から見た戦争』によると、1933(昭和8)年に「新天地桜会稲荷神社」の周辺に「新天地カフェ街」の前身である「新天地遊郭」が完成したそうである。

なお「新天地桜会稲荷神社」は、当初は「浅間町公益質店舗」という建物の前にあったようだ。
 


そして、1955(昭和30)年1月に現在の場所に移転となった
 

赤丸が「浅間町公益質店舗」。青丸が現在地「1956(昭和31)年明細地図より」

 
当時その費用を寄進した「新天地カフェ組合」のそれぞれの店名(玉垣の表面)と店主名(玉垣の裏面)が玉垣に刻まれている。櫻井染五郎氏のものを入れると27名分あった。
 


店名が刻まれている表面
 

裏面には店主名が刻まれている

 
続いて「新天地カフェ街」について。
前述のとおり「新天地カフェ街」の前身は「新天地遊郭」だった。1945(昭和20)年の横浜大空襲で20軒あった店の多くが焼失し4軒だけ残ったそうだ。

戦争の終結後、多くの連合国軍兵が日本に駐在することになり、慰安所を作ることが早急に必要となった。そこで横浜市内の公娼私娼業者が警察の保安課に集められて設営方針が検討され、慰安所を共同経営することが決まる。
 


1929年創業のバンドホテルが候補地?(『ランドマークが語る神奈川の100年』)

 
同年、当初は中区山下町にあった「バンドホテル」が慰安所として整備が進められたが、直ぐに進駐軍宿舎として転用されることになった。そのため、代わりに同じ山下町にあった「互楽荘」という古いアパートが選ばれ本牧・大丸谷(おおまるだに)・真金町・曙町の4組合の共同経営、接客婦100人で、最初の慰安所が設けられた。
 


現在の山下町。「互楽荘」があった面影は何も無い

 
営業が開始すると、たちまち何千人という兵士が列をなし、女性の奪い合いでけんかが絶えなくなり「互楽荘」はわずか1週間で閉鎖となった。そこで共同経営という経営方針が廃止され、業者がそれぞれの営業地で慰安所を経営することになる。

「新天地遊郭」(この時の組合名は新天地私娼町)は、焼け残った4軒で1945(昭和20)年9月3日から営業が再開された。『神奈川県警察史下巻』によると、同年末の記録では、接客にあたっていた女性は30名、営業時間は午前11時から午後11時、料金は20円又は2ドル。当時は大卒初任給が150円程度の時代である。
 


横浜市内には9つの組合があったようだ(『神奈川県警察史下巻』より)

 
それでもまた、慰安所には多くの将兵が殺到した。
そこで状況を緩和するために、警察が慰安所の周辺にキャバレーやカフェなどの営業を許可するようになったようだ。そうして「新天地遊郭」にもカフェ調の店が増えていき「新天地カフェ街」となっていったのだ。

資料などでも探したものの、残念ながら当時の写真は見つからなかったが、ここで言う「カフェ」とは、入口にホールのある独特な造りで洋風の客席で接待をする店のことを指す。
 


このような現在のカフェとは様子は違う(フリー画像より)

 
その後、1958(昭和33)年3月に売春防止法が制定されることになり、業者はその1ヶ月前に自主的に一斉廃業した。

こうして「新天地カフェ街」も1958(昭和33)年2月に終息となった。

『神奈川県警察史下巻』によると、売春防止法が制定される2年前の1956(昭和31)年4月には「新天地カフェ街」に26という業者(店)があり、102名の女性が働いていたそうだ。
 


この26の業者の数は、「新天地桜会稲荷神社」の玉垣に刻まれている数と同じである

 
次に「新天地桜会稲荷神社」の玉垣にも名前が刻まれている「笹本」について。