横浜市営地下鉄は「長後駅」から通るはずだったって本当?
ココがキニナル!
市営地下鉄の始発?終点?なぜ湘南台になったのでしょう?本当は長後駅のハズだったが周辺住民の反対の為湘南台になったと言う話ある。何故反対したのでしょう?後悔したりしてるのでしょうか?(いぶちん☆さん)
はまれぽ調査結果!
町内の商店会の決定権を持つ会員に保守的な人が多く、地下鉄建設の反対が起こった。当時若い世代の会員など賛成派は多かった。
ライター:小方 サダオ
宿場町の歴史を持つ長後の街
宿場町・戸塚と長後街道で結ばれ、宿場町があった藤沢市長後。その長後に横浜市営地下鉄の乗り入れの話があったが、反対があり中止になったという。
1999(平成11) 年、湘南台駅に横浜市営地下鉄ブルーライン(横浜市高速鉄道1号線)が開通することとなったため、それ以前の話なのだろう。
現在の長後周辺の住民は、市営地下鉄についてどう思っているのかキニナり、現地に向かうことにした。
小田急線長後駅のある場所(Googlemapより)
長後駅を降りると、駅前はバスのターミナルなどで広くなっている。しかし駅前には個人商店や飲食店が並び、昔ながらの駅前の風景を印象づける。
小田急線長後駅
長後駅東口のバスターミナル
西口のバスターミナル
駅前には小規模な商店が並ぶ
また駅前の道から一本奥に入ると商店街になっているが、車道は狭く、歩道も整備されていないところがある。そしてシャッターが閉まった商店が目につく。
車道は狭く、歩道も整備されていない
シャッターの閉まった商店が目立つ
商店街は駅を中心に十字型に広がる(Googlemapより)
長後の街に関して調べると、藤沢市のホームページに「長後の地は大山道と八王子街道が交差する交通の要衝(ようしょう)として長後宿場は大いに栄えた」とあった。
長後の名所が記された地図
次に長後駅に関しては「1929(昭和4)年に小田急江ノ島線の開業に伴い長後駅が設置された。1955(昭和30)年に藤沢市への編入以降は、市北部の中心を担っていたが、現在では1966(昭和41)年に開設し、交通ターミナル、都市拠点として整備した湘南台駅周辺へ市北部の中心が移っている」とある。
藤沢市北部の中心が長後(青矢印)から湘南台(緑矢印)に移った
歴史があり市北部の中心的な存在だった街が、現在は衰退した商店街を印象づける街になってしまったようだが、やはり地下鉄が通らなかったことと関係しているのだろうか。
地下鉄が整備されなかった原因を中心に周辺住民に話を伺った。
地下鉄建設について長後の住民は何を語るのか
まずは駅前の比較的新しいお店の男性に伺うと「長後は、以前は藤沢に次いで栄えていた街です。しかし商店街内のお店も住居に変わってしまったものもあり、街の活性化には貢献できません」
商店街内の店が住居に変わった
長後住民の数は多いという
「以前商店街を活性化させる構想に関する資料を見たことがありますが、素晴らしいものでした」と実現しなかった計画に想いを馳せながらコメントしてくれた。
過去、商店街に活気を戻す構想はあった
次に、ある若者向けのお店を営む中年男性に伺うと「地下鉄に関しては、商売人の多くは通ってほしい、と思っていました。しかし昔ながらの素朴な農家の人たちが地主であったため、地下鉄建設のような交通の利便性に無関心な姿勢だったのです」
商店街の多くの人は地下鉄建設に賛成だったという
「しかし商店会は年配者たちが主導権を持っていました。そのため、例えば地下鉄建設の話があったときも、私を含めた若い委員たちが『地下鉄工事に関する提案』などをしても、年配委員に一喝されてしまうのです」
当時の年配者たちが商店会の主導権を握っていたという
「さらに地下鉄建設に関しては、長後は古くからの住人が多く、土地の買収が大変だったようです。しかし、湘南台駅のほうは住人が少なく、地価が安かった調整区域が多かったおかげもあり、鉄道を通すのが楽だったといえるでしょう」と語ってくれた。
湘南台駅
また地下鉄建設の際に鉄道が下を通る予定になっていたお店の女性店主に伺うと「長後は宿場町でしたから、宿屋が多く残っていて、地下鉄建設の時に反対した人たちはその雰囲気を壊したくなかったのでしょう」
地下鉄が下を通る予定だった方面(長後駅東口)
「昭和30年代の活気ある長後を知っている人は、久しぶりに帰ってきて変わりように驚いていました。今さら『地下鉄を作ってほしい』とは負け惜しみのようで言えないでしょう」
次に長後街道沿いのある男性店主に伺うと「地下鉄のことは、1970(昭和45)年前半ごろのことになりますが、当時の商店会長Aさん以下の役員が中心になって反対したのです。当時私のような若い役員は、相手にされませんでした。上役の年寄りの会員は守りに入っていて、反対する姿勢でした」
反対派は「大型店の進出」「地下鉄の駅建設」などに反対したという
「あのころはまだ商店街も調子が良かったことも、反対派が強かった要因でした。黙っていても売れた時代であり、1955(昭和30)年ごろは周辺地域の飯田や綾瀬の人たちから『長後に来ないと物がそろわない』といわれていました」
当時の商店街は好調だったという
「周囲には昔からの農家がたくさんいて、長後で早朝から市場が開かれていたため、それに合わせて商店街の店も開店していたので、潤っていたのです」という。
周囲の農家の人たちが長後で買い物をした
地下鉄の駅建設に反対したことに後悔しているかと伺うと「反対していたのは年寄りの人たちで、今はほとんど亡くなっています。私のような当時の若者は賛成していたため、今残っている人たちは後悔するより、『だから言ったのに』という気持ちの人が多いです」と答えてくれた。
1953(昭和28)年の長後駅
1959(昭和34)年の長後商店街の様子
最後に線路沿いに住む年配の女性に伺うと「商店会に関しては、70歳過ぎの年寄りが上にいたので、『これからの長後を担うのは若者であるはずなのに、どうして年寄りが中心なのか?』と疑問に思ったことはあります。地下鉄建設は、広い土地を持っていた地主は駅周辺の変化にはあまり関心がなく、商店会の人たちが中心に反対しました」
「しかし商店街が衰退しているのは、『買い物は商店街でする時代じゃなくなった』ということで、どこの商店街でも同じ問題を抱えているのではないでしょうか」とコメントしてくれた。
商店街の不振はさまざまな地域で起こっている問題なのかもしれない
続いて前出の「長後商店街を活性化しようとした構想」に関する資料を探してみた。