中世の名残を求めて、鎌倉街道を踏破 ―中の道 1―
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鎌倉街道、大山街道などの街道を踏破して下さい。(jckさんのキニナル)
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「中の道」の鶴岡八幡宮から笠間交差点までの道程は、途中250メートル途切れるが道標や地蔵尊など旧道の名残をそこかしこに楽しむことができる
ライター:永田 ミナミ
今回は鎌倉から
前編と後編でお届けした、県道21号線こと現在の鎌倉街道は、その起点(本町3丁目交差点)から終点(八幡宮前交差点)までを歩いた。
20kmほど歩いてたどり着いた、とっぷり暮れた午後9時の段葛
そのときも大いに参考にさせていただいた『中世を歩く』をもとに、今回は中世の鎌倉街道をその起点から歩いていく。ちなみに「鎌倉街道」という名称について『中世を歩く』には次のようにある。
「鎌倉街道」という名称は公式なものではない。また当時この名称が呼称として使われていたかも疑問であるという。当時の文献には「上の道」あるいは「大道」などの名称がみられるのみで、「鎌倉街道」という名称が一般化されるのは近世になってからというのが通説である。
といったことを踏まえて、改めて中世の鎌倉街道には主要なものとして次のようなルートがあった。
・上の道(かみのみち:鎌倉―府中―高崎―信濃)
・中の道(なかのみち:鎌倉―中山―溝の口―二子の渡し―世田谷―赤羽―陸奥)
・下の道(しものみち:鎌倉―朝比奈越え―金沢―蒔田―六角橋―丸子の渡し―浅草―千葉―上総または常陸)
そしてそれぞれの街道にいくつもの枝道、並行する複線があり、それらをつなぐ間道も多くあった。
ちなみにほかにも「上道(かみつみち)」「中道(なかつみち)」「下道(しもつみち)」という表記や、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡(あづまかがみ)』では「東海道(=京都往還および下の道)」「中路(中の道)」「奥大道(=中の道)」「下道(=上の道)」「武蔵大路(中の道の下野国足利荘<現在の栃木県足利市>~鎌倉区間か)」などといった記述も見られる。
今回は『中世を歩く』を参考に「中の道」を歩いていく。同書によると「舞殿と池の間で参道を横切る道がある。これが「流鏑馬道(やぶさめのみち)と呼ばれる道で、鎌倉街道の起点の道である」となっている。
というわけで、スタート地点感あふれる二の鳥居と段葛を通って境内へ
そして、起点とされるあたりから出発。八幡宮の西側へと出て
前回のルートをさかのぼる。前回はこのあたりは夜道で人通りもなかった
そしてここから前回歩いた巨福呂(こぶくろ)坂を離れて細道に入る
ここは前回『中世を歩く』に「『巨福呂坂の旧道で、途中まで行けるが、あとは廃止され通行不能である』とある道だと思っていた道である。
そしてそう思ってこの日歩いたのだが、後日、ここは旧巨福呂坂ではなく「鶴岡二十五坊」と呼ばれる鎌倉~江戸時代に存在した25(時代によって数は変動した)の寺院跡だったことがわかる。
このときはまだその間違いに気づかず、明るく、そしてまだ体力に余裕のある時間なので行かない手はない、と踏み込んだ。
というわけでいざ、旧巨福呂坂だと思い込んでいた鶴岡二十五坊跡へ
旧巨福呂坂あらためて鶴岡二十五坊跡の魅力
さて、期待に胸を膨らませながら旧巨福呂坂へ踏み込むと、その期待に充分に応えてくれる景色が広がった。
細道に入ってすぐ現れたのは、気持ちよく蛇行する旧街道らしい風景
生い茂る緑に押され傾くフェンスに静かなる自然の大きな力を感じる
やがて進むにつれて緑は次第に深く濃くなり
視線を上げれば、この眺めが広がる
この景色は800年前とさほど変わらないのでは、というようなことを考えながら木々のざわめきに耳を澄まし脳内タイムトリップしながら歩いていく。
とはいえ、もちろん現在ここに暮らす人もいるわけで、それもまたうらやましい
この一帯に寺院が軒を並べていたかと思うと趣深いが、このときはそんなことはつゆ知らず、やがてますます細くなっていく道を右に折れた。
ここから先は民家なのかもしれないかなと思ったが
そういうわけでもないような。舗装が途切れた細道をたどると
いよいよあれが行き止まりか
と近づいていくと、洞窟の入口のようなものが見えた
しかしここから先は私有地であり、そそる出口の光に思いを凝らすのみ
この洞窟が中世に掘られたものと考えるのは難しいとすれば、旧鎌倉街道のルートからはそれてのびるこの行き止まりの先は、かつて歩いた天園ハイキングコースのような道が続いていたのだろうか。
この階段の向こうに、あのときのような山道が続いていたのかもしれない
参考資料、あのときの天園ハイキングコース
そして実際に、建長寺の回春院か半僧坊の裏手あたりで天園ハイキングコースに合流していたのかもしれない。「上の道」「中の道」「下の道」とその枝道をつなぐ間道がいくつもあったとすれば、想像も膨らむというものである。
いよいよ「中の道」へ
さて、再び現在の巨福呂坂を歩いていく
振り返れば建長寺
このあたりで日差しを避けて道の反対側へ渡ると
その先に建長寺の四方鎮守として現在、唯一位置と沿革が明らかな、南の鎮守第六天
そして横須賀線の線路を渡り
JR北鎌倉駅を過ぎ
見えてきたのは小袋谷交差点である
前回の記事でも触れたが、この小袋谷交差点で直角に曲がる現在の鎌倉街道は、近世以降に整備された「鎌倉街道」であり、中世の鎌倉街道とは異なる。
前回は現在の鎌倉街道であるこの道を歩いてきて、左折したのだったが
中世の鎌倉街道は交差点を曲がらずにまっすぐ進むのである
地図で見てみるとこういうことである
さて、交差点を過ぎて110メートルほど歩くと右に入る細い道が見えてくる
この細い道が「中の道」で、直進する道は「上の道」だという。「中の道」は水堰橋(すいせきばし)の手前で右に入るのだが、この水堰橋はかつては「勢揃橋(せいぞろいばし)」と呼ばれていた。鎌倉時代、戦に向かう武士たちは馬を駆ってこの橋に集結し、勢揃いしたあとで出陣したという。
現在の水堰橋(勢揃橋)の様子。このまま行けば瀬谷、本町田へと向かう上の道
地図で見てみるとこんな感じである
さて、ここで緊急事態が発生した。水堰橋のたもとには鎌倉街道の名残をとどめる石標が建っているのだが、その写真が消えてしまっている。
撮影した写真をコンピュータに移しているときに不穏なエラーが起き、焦ったが何とか乗りきったと思っていたら、ここからしばらくの間、中世の名残を楽しむことができる道中の写真数十枚がなくなっていた。油断したころにやってくるデジタルの罠である。
中の道へ、ふたたび
というわけで、中世の名残を楽しむ道中の写真を再撮するために台風一過の処暑に再び旧鎌倉街道を訪れ、今回は北鎌倉駅で降りてさっと水堰橋へと向かった。
小袋谷交差点付近の反射鏡にて
この2日前、編集部・山岸に「永田さんが歩いてる写真も載せてください」と言われたが、かといっても気ままな街道歩きに編集をつき合わせるのも気兼ねするので、上の方法を考案した。
というわけで台風一過の処暑に再訪した水堰橋。写真左方向に進めば上の道である
雨と風が過ぎ去って泳ぎまわる大きな鯉鯉鯉
さて、水堰橋の手前からのびる「中の道」の分岐には古い道標がある
「市指定有形民俗資料 石造道標」の案内も、もはや民俗資料なみの趣
お、快晴の前回は見えなかった文字が曇天のきょうは読み取れる
前回、風雨にさらされた文字は中央最下部の「道」のみしか読み取れなかったが、今回は白飛びもせず写真でもしっかり確認できる。
「右とつか」「左藤さわ」とありそれぞれその後に「道」がつくのだろう
側面には「享保十二(1727)丁未(ひのとひつじ)年十一月」とある
橋のたもとには「せゐ志くはし(せいしくばし)」という石柱もある
「勢揃橋」が「せいしく橋」そして「水堰橋」へと転訛したと『鎌倉街道』にはある。
いよいよ「中の道」へ
さて、旧街道の名残をひとしきり楽しみ、二度目となる「中の道」へ踏み込む
ほどなく左手に見えてくる小袋谷公会堂の前には力石(ちからいし)も置かれていて一興
力石とは、力だめしや力比べに使われた石のことをいうが、小袋谷町内会サイトによると、この力石は100kg近い重さがあり「かつて26貫(97.5kg)と18貫(67.5kg)の力石があった」という伝承の26貫のほうに合致するという。
などと言っているとほどなく横須賀線の「第一鎌倉道踏切」を渡る
踏切を渡ったところには草葺きの山門が素晴らしい成福寺(じょうふくじ)も見える
成福寺を右に見ながら通り過ぎると、心地よいかすかな蛇行が旧街道らしい
鎌倉街道と反射鏡と私
成福寺から350メートルほど歩くと県道301号線と交差する
それを渡ってまた130メートルほど歩くとやや広い道と交差するのだが
この通りを渡ったところにあるのが
離山富士見地蔵尊である
横から見ると「旧鎌倉街道中ノ道」とあり心強い
石碑のもう一面にはこのような説明があった。「富士見」にも納得
地蔵堂の裏には馬頭観音など古い道標も残されている