昭和初期まで使われていた!? 逗子市池子の石切り場跡に突撃!
ココがキニナル!
池子の石切り場跡が気になります。鎌倉周辺には石切り場が多いそうですが、池子の石切り場は地下施設みたいで面白そうです。見に行きたいんですが、予備知識のために取材をお願いします(タロー先生さん)
はまれぽ調査結果!
池子の石切り場の大きさは25メートルプールが収まるくらい、天井の高さは10メートル以上、イワタバコにおおわれた地下施設のような場所だった
ライター:すがた もえ子
神武寺駅から石切り場の跡へ向かう
逗子市・池子(いけご)に石切り場の跡があるという。石切り場というと栃木県宇都宮市の大谷石の石切り場などが有名だが、逗子の石切り場はどんな場所なのだろう。
京浜急行電鉄逗子線神武寺駅(じんむじえき)下車
目的地はこのあたり
今回の目的地である池子の石切り場は、神武寺駅から徒歩で15分強ほど。特別養護老人ホーム「逗子ホームせせらぎ(以下、せせらぎ)」の敷地内にある。
ご対応いただいた「せせらぎ」常務理事施設長の押川哲也(おしかわ・てつや)さん
せせらぎの裏手に進むと・・・
駐車場に出た。緑におおわれた右手の奥に矢印が小さく見える
駐車場の奥に進むと、石切り場へと続く道があった。
ここは一般の人も立ち入り可能なのか? とお聞きすると、石切り場跡を見学するためなら通っても構わないとのことだった。
石切り場に通じる道
さきほど見た矢印の前を通り
草におおわれた道を進んでいくと
石切り場へ到着
壁一面をイワタバコの葉がぎっしりとおおっている。タバコの葉に似ているからイワタバコというらしい。「夏前はこのイワタバコが紫色の小さな花をつけて、とても綺麗なんです」と押川さん。
石切り場の入口に立つライター・すがたと押川さん
この石切り場について、1997(平成9)年1月に当時の石工さんから当時の話の聞き取り調査がされている。それによると明治末から1937(昭和12)年くらいまでの間、3店の石材業者の方が石の切り出しをしていたという。2006(平成18)年に放送されたドラマ『西遊記』のロケ地としても使われた場所だということだ。
このあたりの地層は池子層とよばれ、凝灰岩(ぎょうかいがん)、シルト岩・凝灰質砂岩(ぎょうかいしつさがん)互層(ごそう)からできている。この地層は三浦半島の中部から北部にかけて分布していて、池子のほかにも鷹取山や鎌倉などで凝灰質砂岩が豊富に切り出された。
取材日は残暑が厳しく暑い日だったが、石切り場の中に入ってみるとひんやりとした空気がただよっている。雨水なのか地下水なのか、天井からしみ出した水滴がぽつぽつと落ちていた。
入口の石。のみで削った跡が残っている
ここで切り出された灰褐色の疑灰石は池子石と呼ばれ、石材や建築用材として広く使われていた。池子石の石質は細工がしやすく火にも強かったので、土止めや堀、家の土台部分、階段などいろいろな用途で使われたそうだ。記録によると切り出された池子石はトロッコで運びだされていたという。
内部にも石を切り出したのみの跡が
しかし、1935(昭和10)年ころから大谷石や新しい建材などに押されて需要が少なくなっていったようだ。
奥の方に写っている白っぽいのがライター・すがた
内部の大きさだが、歩いて歩数を数えてみると横7歩、縦34歩というところだった。25メートルプールが収まるくらいの大きさだろうか。天井は高く、10メートル以上は余裕でありそう。
1923(大正12)年の関東大震災の際には、ここで2人の石工さんが命を落とされたと伝わっている。そのためか、石切り場跡には湯呑などがお供えしてあった。
壁には文字が刻まれていた
石切り場跡の壁には「ふりむけば うしろにも居(お)り みちをしへ 知迪(ちてき)」という俳句が刻み込まれている。意味は「振り向けばうしろにもハンミョウがいる」といったところだろうか? 詳細については後述するが、この句碑は石切り場跡を観光地化しようと1936(昭和11)年秋ころから彫りはじめ、翌年完成したもの。
「みちをしへ」とはハンミョウという昆虫のことだ
1936(昭和11)年ころ、近くにある神武寺の住職と石切り場で働く石材業者の方たちの間で、地域を活性化させるためにも、もう少し観光にも力を入れてみようという話し合いがもたれた。その際に検討されたのが、石切り場の脇を通り、現在の池子小学校の脇から、金毘羅山を尾根沿いに登って神武寺まで行く道を観光ルートにすることだった。
現在も神武寺駅から逗子中学校、神武寺を経由して東逗子まで続くハイキングコースがあるが、当時計画されたののとは異なる観光ルートだった。
オレンジのルートが現在のハイキングコースだ
当時観光ルートを作るにあたっては、湘南電鉄(現・京浜急行電鉄)にも協力を得ていたという話だが、残念ながら最後まで観光ルートが完成することはなかった。
逗子市によって建てられた説明版
この近辺、イノシシが出るようだ
神武寺の住職と石材業者たちは、このルートにいろいろな観光の目玉があったらと、検討したそうだ。
石切り場に彫られた句も、観光の目玉の一つとして考えられたもので、この句は神武寺の住職と懇意でもあった俳人・知迪(ちてき)に詠んでもらったものだ。句碑とともに現在の「せせらぎ」近くに釣り堀や不動の滝なども作られた。
神武寺へ向かう分かれ道付近にも石を切り出した跡があった
地域を活性化するために準備が進められていたのだが、世の中が戦争などによって騒がしくなり、計画通りにいかなくなってしまった。旧日本海軍によって池子の森の中に池子弾薬庫が建設されることになったからだ。
以前はまれぽでも調査したが、池子の森の中に作られた池子弾薬庫の建設による用地買収によって、この近辺の住民は立ち退かなくてはならなくなってしまった。それに加えて観光コースの建設に関わった人々も戦地へ出兵。残念ながら計画は断念せざるを得なくなってしまったという。