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岸根公園は、死体置き場だった?

ココがキニナル!

岸根公園は、戦時中は死体置き場だった?(doramucanさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

朝鮮戦争とベトナム戦争時に米軍の基地があり、1966年から病院もあった。国内に死体処理施設はあったとされるが、岸根がそうであった確証はない。

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ライター:吉岡 まちこ

朝鮮戦争時、米軍の兵舎となった岸根公園 (つづき)

終戦から5年後の1950(昭和25)年、朝鮮戦争が勃発。アメリカは朝鮮への攻撃の足がかりに占領下だった日本国内の接収を欲しいままにした。

市有地に加え民有地までもが接収された岸根基地に、米軍は高射砲陣地を構え、さらには横浜の大都市部の接収が解除された代替えに「岸根バラックス」を誕生させた。1955(昭和30)年4月のことだ。
 


「岸根バラックス」。バラックとは兵舎のこと
(写真提供/横浜市政策局基地対策課)
 

この図は少しあとのものだが、ヘリポートやプール、野球場もあった
(写真提供/横浜市政策局基地対策課)


韓国からの帰休米兵の休養施設を兼ねていたという話もあるが、バラックが誕生した年の末、1955(昭和30)年12月に朝鮮戦争の休戦決定後も、接収が解除されることはなかった。

用途は何だったのか座間の在日米陸軍基地管理本部に問合わせたところ、当時「Administration Record Center」、つまり記録管理センターと呼ばれる機関だったことが判明。推測は尽きないが、3階建ての建物と運動施設があったこと以外はわからないとのことだった。
 


オレンジ色の線の内側が最終的に接収されていたエリア
(武道館付近の境界は推測)


朝鮮戦争の休戦から数年、きな臭さは消えず今度はインドシナ半島で新たな戦争が起ころうとしていた。


ベトナム戦争時、岸根基地は病院になった



ベトナム戦争の激しさは数々の映画などでも知られるが、北ベトナムへの攻撃、いわゆる北爆を開始した1965(昭和40)年2月以降、泥沼化した地上戦でアメリカの派遣兵は1969(昭和44)年に54万人を超えた。

南ベトナム解放民族戦線の強力な反撃にあい、最終的な米兵の死者数は5万6千人余。負傷者は30万人以上にのぼったという。そこで、遺体の運搬と同時に、治療のための病院の整備が急がれた。(数値は『ベトナム戦争と日本』吉沢南著より)

1966(昭和41)年、米軍は岸根基地の用途を突然変更し「第106総合病院」を開設。
「4階建て鉄筋コンクリートの建物を4棟も、日本政府があっという間に建ててあげたと言われています」(平井さん)。日米の不均衡な条約、理不尽な戦争への加担。基地はその集約だった。
 


有刺鉄線の向こう側が岸根基地内の兵舎か病棟か…。
沿線雑誌『とうよこ沿線』49号「白楽・東白楽特集アルバム拝借」から
(写真提供 横浜市神奈川区六角橋 橋本公平さん)
 

昭和45年8月の配置図。左に病棟が4棟見える(「港北区史」より抜粋)


ベッド数は1,000床。新横浜の横浜労災病院や、横浜市立市民病院のベッド数がいずれも約650床だから、いかに規模が大きかったかわかる。こういった野戦病院は東京近郊だけでも朝霞、入間、立川の基地内や相模原の座間病院など7ヵ所あったようだ。

筆者吉岡の知人で幼少期から公園のすぐ近くに住んでいた人が「ヘリコプターが飛んでくる日は、1日に何機も飛んで来て、そういう日は“今日の戦争は大変だったんだね”と家族で話した」「岸根に運ばれるのは重傷者、軽傷者、その両方の説があった」と教えてくれた。

大倉精神文化研究所の平井さんも「地元の人から、篠原池には死体が浮いていたとか、ホルマリンの匂いに充ちていたとか、そういう噂は耳にした」そうだ。
7月4日の独立記念日には年に1度キャンプ内が解放され、子どもの頃お菓子をもらった記憶があるという50代の女性と話したが、「戦死者の死体を洗うので池が血で赤く染まっていた、というのが小学生の間での“都市伝説”だった」そうだ。ネットなどには死体処理施設だったという話まであった。
 


今は公園内の篠原池。当時は写真奥に見える武道館の大半も池だった


松本清張の『黒地の絵』という著書に、朝鮮戦争時の小倉の死体処理施設で働く日本人の話が詳しく、日本国内にその施設があったろうことは確実だが、実際のところはアメリカの機密だ。1964年以降死体処理施設は岸根ではなかったという具体的な記述も見かけるが、はっきり書かれたものは見つからなかった。
 


高台の少年野球場から教会と下士官宿舎を見る(『大倉山論集』第58号より転載)
 

ほぼ同じ位置からと思われる現在の眺め


しかし実際負傷兵が亡くなっても不思議ではない。アメリカでは宗教上の理由から、戦死しても火葬せず遺体は本国に飛行機で還す。
爆撃で砕かれた体や失った四肢は縫合され、腐敗を防ぎ顔色を戻す処理をしたのち棺に納められたという。