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横浜にもゆかりがあるという築城の名人・太田道灌ってどんな人?

ココがキニナル!

江戸城を築城した太田道灌さんは、鎌倉、横浜、川崎などとも縁が深いそうです。どんな方だったのか取材してください。キニナル(にゃんさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

築城の名人と呼ばれ、歌人としても評価された太田道灌。鎌倉に生を受けた道灌の伝説は、港北区の小机や川崎の夢見ヶ崎などにも残されていた。

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ライター:ナリタノゾミ

幼少期を過ごした鎌倉の地(つづき)

さて、「五山無双の学者」となり、11歳で修行を終えた少年は、ちまたでも神童と噂されるほどだった。その俊英ぶりを物語る逸話が残っている。

父は、幼き道灌が慢心することを危惧し、「知恵は多すぎても少なすぎても芳しくない。例えば、障子は直立しているからこそ、立っていられるのだ(バランスが保たれているからこそ、立っていられる)」という旨を諭したところ、幼き道灌は屏風を取り出し、「父上、屏風は曲がっているからこそ立っていられるのです」と、やり返したのだという。
 


「太田道灌雄飛録」中の絵図をもとに再現(イラスト:ナリタノゾミ)


このとき、得意気になっている道灌が、父にとっていささか生意気に映ったかもしれない。いずれにしても、彼の神童ぶりを物語るエピソードとして語り継がれている。
 


建長寺から英勝寺へと向かう道すがらの野草




城作りの名人が生んだ伝説

JR横須賀線・新川崎駅から徒歩15分ほどの場所にある、「夢見ヶ崎」。同地はもともと加瀬山と呼ばれていたが、太田道灌が見た夢にちなみ、現在の名前が付されたのだと伝えられている。
 


入場無料の動物公園があることでもおなじみの夢見ヶ崎
 

親子連れで賑わっている


1828(文政11)年に成立した地誌「新編武藏風土記稿」は、夢見ヶ崎と呼ばれるようになったゆえんについて「昔太田道灌この地へ城を築んと思ひしに、或夜道灌己がかふとを鷲の来て抓み郡内駒岡村と云所へ飛去りしと夢見しかは、此事不吉なりとて其企をやめけりと、其跡を夢見ヶ崎と唱るよし土人は傳ふれども、外により所なし」と記している。

同地に城を建てようと陣を張った道灌が、一羽の鷲に自分の兜(かぶと)を持ち去られる夢を見たため、その試みを断念した、というエピソードにちなみ、夢見ヶ崎と呼ばれるようになったのだという。

もっとも、彼が同地を訪れ、上記のような夢を見たという史実は記録上見つかっておらず、あくまで伝説の域を超えない。
 


夢見ヶ崎公園からの眺め


夢見ヶ崎の一帯には、11基の古墳が築造されており、厳かな雰囲気が漂う。
 


4世紀に築造されたという古墳(9号古墳)は、日本最古級だという


江戸城を築城すると、その城内に、日枝神社・平河天神・築土八幡宮を設置するなど、信心深い一面をのぞかせる道灌。はたして加瀬山を訪れたのかさえ謎であるが、彼の信心深いその性格と、築城の名人としてのキャラクターが色付けされて伝わった逸話なのかもしれない。