横浜にもゆかりがあるという築城の名人・太田道灌ってどんな人?
ココがキニナル!
江戸城を築城した太田道灌さんは、鎌倉、横浜、川崎などとも縁が深いそうです。どんな方だったのか取材してください。キニナル(にゃんさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
築城の名人と呼ばれ、歌人としても評価された太田道灌。鎌倉に生を受けた道灌の伝説は、港北区の小机や川崎の夢見ヶ崎などにも残されていた。
ライター:ナリタノゾミ
戦いの最中にも見せた、歌人としての心意気
山内上杉家の家宰を代々勤めていた長尾家の嫡男・長尾景春が家督を譲られなかったことを根に持ち起こした反乱、長尾景春の乱。
1478(文明10)年、46歳の道灌は景春側の武将・豊島泰経の逃げ込んだ小机城(横浜市港北区)を包囲した。
小机城跡は現在、「小机城址市民の森」となっている
なお、小机城址については、過去の記事も参照して欲しい。
小机城が高台に築城されていたことをしのばせる園内の丘陵
道灌もここから城を見上げたのであろうか
道灌は、鶴見川対岸に陣を張り、約2ヶ月半に渡り、小机城を攻めた。
「富士仙元」から、道灌が陣を張ったといわれる川向うを望む
道灌の戦は、速戦即決の戦法が多かったというが、このときばかりは苦戦したようである。川越・江戸の守備の必要性から、小机城攻めにおいては圧倒的に兵力が少なかったのだ。
そんな状況下で、道灌は味方の兵の士気を保つため、次のような歌を詠んだという。
「小机は 先手習のはじめにて いろはにほへとちりぢりになる」
(小机攻めは、手習いに過ぎない。ちりぢりにしてやろう)
小机城址の碑
自ら歌合(参加者が歌を詠みあい、その優劣を競い合う会)を主催したり、当時、堂上歌人として名が知られていた飛鳥井雅親(あすかいまさちか)から添削つきの通信教育を受けたりするなど、歌人としての腕を磨くことにも熱心だった道灌。
はたして戦場においても他者の心を動かす歌を詠んだのだろうか。
彼が武人でありながら、文化人としても類稀なる才能を持っていたことをのぞかせるエピソードである。
道灌は、この後、奇策を用い、田畑に囲まれた小机の大地にあたかも火を放ったかのように見せかけ、敵兵の士気を弱めることで小机城を落としたと伝えられる。
なお、宝生寺(南区堀之内町1丁目)には、小机城攻めにおける戦勝祈願に対する道灌からの礼状が残っているそうだ。
取材を終えて
1486(文明18)年、太田道灌は、相模国糟屋(伊勢原町)にて、主君である上杉定正に謀殺される。55歳であった。
「関東八周所々にて合戦止時なく、をのづから修羅道の岐と成、人民耕作をいとなむ事あたはず。飢饉して餓死にをよぶもの数をしらず」。室町時代の歴史書、「鎌倉大草紙」は、道灌の生きた時代の関東一円がそのような悲惨な状況にあったことを記している。
江戸・岩槻・川越に城を築き、武蔵国を守ろうと奮起した武将、太田道灌。いたずらに戦を好まず、なるべく血を流さずに関東の平穏を取り戻そうと努めた。
「永享記」には、道灌が、五常(仁・義・礼・智・信)、三徳(仁・勇・智)を守り、是非善悪を明確にし、慈悲を持って諸将を統率したと記されている。
人を動かすための配慮を欠かさず、私欲を捨て、任務に当たる道灌の姿勢に、諸将たちが付き従った。主君である上杉定正は、そんな彼の人望の厚さに嫉妬し、ひいては地位を脅かす者として恐れた。
死後、時は移ろい、江戸時代に入ると、庶民の人気に乗じて「太田道灌兵書」「太田道灌自記」など、あたかも道灌が執筆したかのように装った偽物の書物が出回ったという。
太田道灌のその人柄、生き様が、時を経ても語り継がれ、後世に至ってもなお人々を魅了し続けた証である。
―終わり―
参考文献
「新編武藏風土記稿」
「永享記」
「鎌倉大草紙」
「鎌倉市史 社寺編」(鎌倉市史編纂委員会編)
「川崎市史」(川崎市編)
「日本の武将26 太田道灌」(勝守すみ著)
ニャンコ江戸沢さん
2013年08月24日 01時08分
横浜の地名で、南区の「南太田」や中区の「太田町」、神奈川区の「広台太田町」なども太田道灌の名残りなんでしょうか?南太田の近くにある清水ヶ丘の太田小学校には、太田道灌が今は巨大なお墓になっている久保山に築城するために居館をつくったという言い伝えが残っているようですが…
くてくてさん
2013年06月13日 20時36分
どうせなら鶴見区の上末吉バス停近くにある兜塚も取材してほしかったです。兜塚は「一羽の鷲に自分の兜(かぶと)を持ち去られる夢を見たため、その試みを断念した」のその兜を鷲が落とした場所と言われています。
雲葉 @since1992さん
2013年06月12日 11時42分
他意のない単純な疑問なんですけど、地域にゆかりのある歴史上の人物なら学校で教えないんでしょうか?こういう記事が「いや、学校で教わったことなんかない」という方ばかりなら、地域教育それでいいのか?という気持ちになります。