かつて東急東横線東白楽と反町駅の間に、幻の駅があった?
ココがキニナル!
先日、大倉山に行って知ったことですが、以前 東横線東白楽と反町駅の間に駅があったそうです。どこらへんなのか、何か痕跡が残ってないか、調べていただきたい!(はまことさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
かつて「新太田町駅」があったが、横浜大空襲の焼失により廃駅に。一時は日本貿易博覧会の臨時駅として復活するも、現在では石碑しか残っていない
ライター:河野 哲弥
現場には石碑が建てられていた
教えていただいた場所には、かつての東横線路線跡を利用した、「東横フラワー緑道」という公園が整備されていた。
この場所に「新太田駅」があったようだ
現住所は、神奈川区広台太田町9
そして、東横フラワー緑道の石碑のそばには、こんな石碑が建てられていた。書かれている内容は、駅舎の解体工事中に発見された案内看板と、ほぼ同じようだ。
現地に残っていた石碑
さて、当時の様子を知っていそうな妙齢の方を探していたら、買い物途中だという男性に出会った。子どものころの思い出だが、まだ記憶に新しいと話す。
「新太田町駅」の様子を語る榊原さん
榊原さんによると、向かって左に見える茶色の建物のあたりに、かつて高架式ホームへ向かう上り階段があったそうだ。子ども心に、「ほかの駅と比べて、ホームが短かった」ことを覚えているという。
そのとき、地下を通る東横線の音が、手前にある通気ダクトから、まるで効果音のように鳴り響いてきた。
横浜市史資料室にも「ない」という、当時の画像
その後、現場近くにある神奈川区役所、東急電鉄本社、主に震災後の貴重な資料を収集している「横浜市史資料室」などにも問い合わせてみたが、肝心の「駅舎の画像」は残っていないそうだ。
また、鉄道史に詳しいという中区にある「横浜都市発展記念館」の岡田直(なおし)先生を訪ねてみたが、画像はもちろん、「新太田町駅」の理由なども不明とのこと。
地下線化工事の完成により、人の記憶にしか残らない駅となってしまったのか
戦前の話である。近代になってからの工事や遺構の様子などを除き、「駅舎」そのものが分かるような資料は、発見が難しいのかもしれない。
もし、どなたか貴重な画像をお持ちの方がいらっしゃったら、ぜひ編集部へご連絡いただきたい。併せて、「新太田駅」の謎についても、情報を募集している。
―終わり―
mimichanさん
2013年09月29日 10時22分
新太田町の駅名は、やはり中区の太田町、南区の南太田町(昭和5年、南太田町駅も開設された。)があったので、「新」をつけて区別したものではないか。同じような駅名は避けるのは当然。また、横浜市は町名にも同じものを使用しないという規則を設けており、もともと同じ地名の場合は、町名の頭に一文字加えて、町名を決定したりしている。状況的にそれが「新」太田町になった理由だろう。
吉閥さん
2013年08月24日 00時26分
地下化工事が始まる前には、ホームの土台跡が残っていました。高校への通学の往復に、車窓から何気なく眺めていました。今更ながら写真を撮っておけばよかったです。
さぶさぶろーさん
2013年08月22日 21時01分
大変興味深い記事だったのですが、「妙齢」の使い方間違ってません?妙齢って若い人、特に若い女性をさす言葉ですよね?榊原さんは写真を見る限り、失礼ながら高齢の方に見えますが。それとも、祖父母から当時のことを聞いて知っている若い女性を探していたところで榊原さんと出会ったのでしょうか?誤字脱字ならケアレスミスでしょうが、言葉の意味を違って使うのはどうかと思います。ハマレポは校正ってしていないのですか?