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神奈川大学はなぜ六角橋にある? 学校と学食の誕生秘話が知りたい!

ココがキニナル!

昭和の初め神奈川大学は横浜学院と呼ばれ、桜木町駅前にあり横浜専門学校と改名し六角橋に来たそう。当時は田園風景が広がりキャンパスは違和感があり目立っていたそう。なぜ六角橋に?(ねこぼくさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

1928年3月設立「横浜学院」が1929年4月に「横浜専門学校」になり1930年に学校誘致をしていた農村地帯の六角橋に校舎が移り「神奈川大学」へ

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ライター:橘 アリー

神奈川大学発の地!



専門学校創立には校舎が必要だったため、当時の住所、横浜市中区西戸部町富士塚に土地を借りて校舎を建設。

専門学校の設立は、30歳の米田氏だけでは資金繰りが困難であったため、理事の樋貝氏や米田氏の叔父などから融資を受けたという。

富士塚の校舎は木造平屋建てで、建坪231坪(762平方メートル)。材料は国からの払い下げの材料を利用して造られ、壁はボール紙製という、専門学校の校舎としては粗末な建物であったそう。

竣工は1928(昭和3)年12月下旬で、「横浜学院」は「横浜専門学校」と名前が変わり、翌年1929(昭和4)年4月から授業が開始された。
 
現在、跡地は境之谷公園となっている。
 


境之谷公園の様子
 

公園の中には“こどもログハウス”があり、校舎はこんなに立派なものでは無かったようだが、建物を見ていると何となく校舎があったという様子が感じられる。
 


こどもログハウスの中はアスレチックになっている

 
そして、公園の一角には、「神奈川大学発祥の地」の記念碑が建っている。
  


前から見た記念碑の様子
 

記念碑の裏には、「神奈川大学は昭和四年に創立した横浜専門学校にはじまる」という内容の由来文が記されている。
 


裏から見た記念碑の様子

 
次に、六角橋に移転した経緯を伺った。
 


六角橋は学校を誘致していた!



米田氏は将来、学校を拡張することを視野に入れた場合、富士塚の校地だとあまりにも狭かったので、校舎を建てたばかりではあったが、より広い場所を探していたという。
そして、ちょうどそんな時に、六角橋が空き地に施設の誘致をしていた。当初は特に学校用地に限った誘致では無かったが、地主の山室周作氏は創業者である米田氏の想いに賛同し、学校建設にとても協力的であったため六角橋へ移転することになった。
また、市電が通っていて交通の便も良かったことも、米田氏が六角橋に移転を決めた理由の一つでもあった。

この時も、移転の費用がなかったため、横浜の資産家に協力をお願いして、費用の援助を受けて移転が実現した。
 


1930(昭和5)年当時、六角橋に移転した「横浜専門学校」の正門
(神奈川大学デジタルアーカイブ所蔵)
 

現在の神奈川大学の正門の様子


六角橋の土地は、坪数7500坪で、富士塚の約32.5倍の広さである。
当時、六角橋は、田んぼや畑などの農村地帯であったが、1928(昭和3)年に市電が開通したこともあり、交通の便も良くなっていた。

六角橋への移転を開始したのは1930年5月15日で、この日が神奈川大学創立記念日なのだそう。

では、どのような経緯で「横浜専門学校」から「神奈川大学」になったのだろう。
 


神奈川大学の誕生!



戦後の教育改革によって、旧制大学に加えて、専門学校・師範学校・旧制高等学校が大学に昇格することになった。それにより、横浜専門学校も大学に昇格。

当時の横浜には旧制大学がなかったので横浜専門学校と同様、現在の横浜国立大学と横浜市立大学も、この時一緒に大学として昇格した。

そして、大学に昇格するにあたって、大学としての名前を決める必要があったので、3校の学長予定者が集まって大学の名前を決める話し合いを行ったそうだ。
 


神奈川大学に名前が決定したことが載っている新聞記事(神奈川大学デジタルアーカイブ所蔵)


横浜専門学校は、最初は「横浜大学」という名前を候補としてあげていたが、ほかの2校も横浜という名前を候補にあげていたそうだ。そこで、横浜専門学校は、学内で候補に上がっていた「神奈川」という名前を大学名にすることを選んだ。

順調に3校の話し合いがすみ、1949(昭和24)年4月に、横浜専門学校は、神奈川大学へ。

当時の学校周辺はどのような様子だったのだろうか。