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横浜の主力輸出品だった生糸。その栄枯盛衰に迫る!

ココがキニナル!

昭和の初めごろ、横浜港の近くにあった生糸検査所で、たくさんの若い女性が働いていたそうです。当時、生糸は横浜の主力輸出品だったようですが、横浜のどのあたりで盛んだったの?(ねこぼくさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

養蚕が盛んだった地域は、現在の泉区・戸塚区・瀬谷区。大正9年の生糸相場の暴落、太平洋戦争により、軍事が優先となり産業は衰退していった。

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ライター:橘 アリー

泉区で養蚕業が盛んだった理由は?



泉区役所内にある、いずみ区民活動支援センターで、なぜ泉区(中和田村と中川村)で養蚕が盛んに行われていたのかを担当者にその理由を聞いてみたところ、明治時代は、政府の産業の近代化をはかる政策もあり、養蚕は儲かるということで流行り、横浜の各地の農家が養蚕を始めたのだという。
 


泉区役所の様子

 
養蚕は気候に影響されやすいものなので上手く行かない地域もあったが、中和田村と中川村の辺りは気候などの条件も適していたようで、上手く行き盛んに行われたのではないか、ということだった。

泉区には、二か所、蚕の供養塔があるようなので、その様子を確認することに。
前述した担当者に、蚕の供養塔のある場所を教えてもらった。

さらに、供養塔のある場所が載っている『泉区散策ガイド』を頂いたので、それを参考にして供養塔の様子を確認することに。
 


「泉区散策ガイド」は、とても分かりやすく書かれている

 
まずは、蚕御霊神塔(かいこごりょうしんとう)。
これは、横浜農協和泉支所の東側にあり、土地の人々が蚕霊供養のために建てたたものである。
 


蚕御霊神塔の様子。この塔は、大山道の道標も兼ねているそうだ
 

横浜市の地域有形民俗文化財に指定されている

 
次は、三柱神社(みはしらじんじゃ)内にある、蚕霊供養塔の様子。
 


神社の鳥居を潜って行くと
 

境内の奥の方に供養塔がある
 

この供養塔は、1896(明治29)年に建てられた


そして、神社の管理人をされている方に、どの辺りが桑畑だったのか聞いてみたところ、神社の南側にある小さな丘の奥の方にそうだったようだ。
 


以前に桑畑のあった場所は、現在は、住宅や畑になっている

 
その他、供養塔以外にも、持田製糸工場の社主が寄付した土地が公園として利用されていて、養蚕や生糸の改良に力を注いだ持田初次郎の顕彰碑が立っている。
 


公園の看板の様子
 

公園内は、子どもたちの遊び場になっている

 
様々な碑が残されていて、泉区では養蚕が盛んだった様子が伺えた。
慰霊碑を確認したところで、次は、当時の生糸検査所について。



横浜生糸検査所の歴史は?



資料などを調べてみたところ、キニナル投稿にある「昭和初めごろ、横浜港の近くにあった大きな生糸検査場」とは、年代や場所からすると横浜生糸検査所のことだと思われる。

横浜生糸検査所が最初に作られたのが、1896(明治29)年のこと。
横浜が開港して生糸の輸出が始まったが、そのころは、品質検査や相場の設定は定まっておらず、輸入する側の外国商人の言うがままになっていた。

そこで、横浜の生糸商人たちが、品質や価格の基準を一定にすることを目的として、横浜生糸検査所を作ったそうである。

最初の横浜生糸検査所が作られたのは、現在の中区本町1丁目1番地である。
 


現在の本町1丁目近辺の様子
 

1896(明治29)年当時の建物の様子(『横浜生糸検査所60年史』より)
 

同じ場所で、1918(大正7)年に増築工事が行われた(『横浜生糸検査所60年史』より)

 
この頃の建物の様子についての資料はみつからなかったが、当時使われていた検査の道具の絵が残っている。
 


検査に使われていた道具の様子(『横浜生糸検査所60年史』より)

 
そして、この当時から、現在の合同庁舎の正面の上部に掲げられている「蚕の成虫をモチーフにした紋章」が使われていた。
 


当時使われていた書類に、紋章が描かれている(『横浜生糸検査所60年史』より)

 
1923(大正12)年に起こった関東大震災で被災したため、横浜生糸検査場は移転を余儀なくされる。震災の前年に鉄筋コンクリートで建物の拡張工事が行われていた為、地震で倒壊することなく、所員の全員が生き延びることができたそうだが、内部は火災で焼けてしまっていたという。

そこで、本町の建物の震災後の応急修理が行われたが、建物が手狭だったことと、本町では鉄道の利用に不便であるということで、生糸検査所の建物を新しく建替える際、場所の検討が行われ、土地も広く当時の横浜駅にも近いという理由から、現在の横浜第2合同庁舎のある場所(北中通り5丁目)に建てられることになった。
 


1925(大正14)年の工事中の様子(『横浜生糸検査所建築記録』より)
 

震災後応急修理された建物の様子(『横浜生糸検査所60年史』より)

 
この時の建物の設計は、建築家の遠藤於莵(えんどうおと)が行い、1924(大正13)年~1932(昭和7)年にかけて工事が行われた。

そして、終戦後の1945(昭和20)年には、建物は米軍に接収され、1947(昭和22)年には全面接収解除となった。しかし、前述したように、太平洋戦争で軍事が優先されるとともに養蚕が衰退していったこともあり、建物は横浜農林総合庁舎となった。
その後、生糸検査所は、農林規格検査所に統合された。

現在の横浜第2合同庁舎の建物は、横浜生糸検査所だった当時の外観の様子に近い形で復元されて、1995(平成7)年に建てられたものである。
 


現在の横浜第2合同庁舎の建物の様子


続いて、建物が生糸検査所として使われていた当時の様子について。