横浜生まれの大スター「美空ひばり」ってどんな人だった?
ココがキニナル!
今年は、美空ひばりさんの25回忌。横浜ブルグでも、8日から命日24日まで『ザ・スター美空ひばり~大人の音楽祭~』を行うようです。美空ひばりさんの足跡をレポートしてください(Ryo.ACさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
美空ひばりは横浜が生んだ史上最大のスター。52年の生涯で、多くの人を魅了した。
ライター:松崎 辰彦
NHKとの対決 家族との別れ
小林旭との結婚・離婚という出来事を経るが、ひばりはその後もヒットを飛ばす。1966(昭和41)年には『悲しい酒』、1967(昭和42)年には『真っ赤な太陽』を発表し、注目を浴びる。
1970(昭和45)年8月、ブラジル公演。12月、紅白歌合戦で司会と大トリを務める。
1973(昭和48)年、実弟かとう哲也との共演の「ひばりショー」が全国の公会堂や市民ホールから拒否される。理由は、かとうと暴力団との関係であった。
1974(昭和49)年12月、紅白歌合戦出場拒否を宣言し、NHKと対立する。
1976(昭和51)年12月、日本レコード大賞特別賞受賞。
1977(昭和52)年1月、NHKと和解。
1979(昭和54)年12月、紅白歌合戦に特別出演。
──実弟の不祥事により活動の場を狭めざるを得ず、社会的にも批判される事態になった。そうした中でもひばりは飽くまで家族のつながりを大切にする姿勢を貫く。
ひばりの妹、佐藤勢津子さんの著書『姉・美空ひばりの遺言』(KKベストセラーズ)
1981(昭和56)年7月、母喜美枝死去(68歳)。
1983(昭和58)年10月、弟哲也死去(43歳)。
1986(昭和61)年4月、弟武彦死去(43歳)。
──家族が次々死去する中で、ひばりは孤独を深めていく。さらに自らも健康を害していった。
1987(昭和62)年4月、慢性肝炎ならびに両側大腿骨骨頭壊死で福岡救生会病院に入院。
8月、退院。
1988(昭和63)年4月、東京ドームで復帰公演「不死鳥コンサート」を挙行。39曲を歌う。この公演の後、体調が次第に悪化していったが、全国13ヶ所でのコンサートをスタートさせた。12月、帝国ホテルでディナーショー。
多くの人に愛されたひばり
伝説となったひばり
1989(平成元)年2月、福岡県北九州市小倉で生涯最後のコンサートを行う。そして済生会福岡総合病院に入院。退院するも、順天堂大学病院に転院。3月には自宅からラジオ番組に出演するが、直後に順天堂大学病院に再び入院する。すべての芸能活動の年内休止が発表された。6月13日意識不明の重態に陥り、24日午前0時28分逝去。享年52歳。7月、女性初の国民栄誉賞が授与される。
──ひばりは1989(平成元)年4月19日の横浜アリーナのこけら落としのコンサートに執念を見せていたがそれも叶わなかった。そして11日間の昏睡状態のすえ、52年の生涯を閉じた。
不世出の歌手、美空ひばりはかくて伝説の人となった。
美空ひばり 享年52歳
「ゲラちゃん」との出会い
「私は彼女のことを“ゲラちゃん”と呼んでいました。何かといえばゲラゲラ笑うからです。のちになって彼女のお母さんに『“お嬢”って呼んでよ』といわれましたが、私はかまわずにゲラちゃんで通しました」
こう回想するのは横浜本牧観光協会会長の鶴田理一郎さん。はまれぽでもすでに『本牧って昔はどんな感じだった?』などの記事にご登場いただいている。
鶴田理一郎さん
彼は1937(昭和12)年7月、千葉県に生まれたが、戦争で父が戦死し、長男ゆえに兄弟姉妹を食べさせなければならなくなった。進学を勧める教師の声を振り切って上京し、紆余曲折のすえに横浜に来た。
20歳の鶴田さん(画像提供:鶴田理一郎)
「横浜に来たのは、ひばりさんに憧れていたからです。実は彼女が千葉に映画のロケに来たときに、私は見物に行き、そこで言葉を交わしていました」
同じ1937(昭和12)年生まれということもあり、意気投合したそうである。
「彼女とは『学校に行かなくたって、世の中のためになれるよね』なんて話し合いました。彼女はかつてマスコミから“親に学校に行かせてもらえない”といわれました」
神奈川新聞1949(昭和24)12月10日付け
ひばりは鶴田さんに“私が5月生まれであなたは7月生まれだから私の方が年上よ。私のいうことを聞きなさい”といったとか。
鶴田さんは「もし私に学歴があったら、彼女は振り向きもしなかったでしょう。やさしい人なんです」とひばりの人柄を語る。
明らかに≫