アーティスト「矢沢永吉」さんは、トップスターになる夢を横浜でどのように過ごし育んできたのか、徹底調査!
ココがキニナル!
矢沢永吉さんが昔弘明寺に住んでたと聞きました。当時の矢沢さんを知る方々は弘明寺にいる?若い頃の矢沢さんがどんな方だったのか、なぜ弘明寺なのか調べてもらえますか?(yujunaさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
矢沢永吉さんはアルバイト先の下宿があったため弘明寺に住んでいた。元バンドメンバーによると当時から音楽センスがずば抜けていたとのこと
ライター:小方 サダオ
矢沢さんが演奏していた場所を尋ねる
本文に登場するライブハウスを探してみることにした。
最初は本牧のゴールデンカップ。現在も営業していて、1950年代に『長い髪の少女』で一世を風靡したゴールデンカップスが出演していたことで知られるバーだ。代表の上西(うえにし)さんに話を伺った。
本牧のバー・ゴールデンカップ
親しみやすい人柄、京都出身の上西代表
「このバーは1964(昭和39)年12月7日、生バンドが入りダンスを踊れるクラブとしてオープンしました。1975(昭和50)年までベトナム戦争の米兵相手のバーでした。その後戦争が終わり、米兵が帰国したため、日本人だけを対象にする方針に変えました」と答えてくれた。
ゴールデンカップ店内に飾られた米兵がいたころの当時の写真
米兵相手のバーだったころ、ビートたけしが怖くて入るのをあきらめた、という逸話がある。
矢沢さんはデビュー40周年のNHK特番でロケ地としてゴールデンカップを訪れた
あるライブのMCで「当時ジンライムを飲んだ」と話したため、それを目当てにファンが飲みに来る
次に『成り上がり』に登場する、音楽の練習場にしていた「喫茶・タクト」を、長者町にて発見した。
支配人の佐久間さんに話を伺うと、
「このビルはタクトビルといいます。『矢沢さんが横浜に着いて最初に働いていた場所なんだ』と、お客さんから聞きました。当時はお好み焼き屋やスナックが入っていました。矢沢さんはその後、中華街に仕事場を変えたそうです」と答えてくれた。
このビルは前出の「横浜に着いて最初の仕事場」だった食堂のあった場所だ。
タクトビルの2階から上の外観はほとんど当時のままだ
いろいろと矢沢さんゆかりの場所をめぐった・・・。しかし当時の矢沢さんのイメージがはっきりとは浮かんでこない。やはり当時彼の近くにいた人の生々しい話を聞きたい、と思った。
そこで矢沢さんの活動初期のバンドメンバー・木原さんにコンタクトを取った。すると、木原さんの先にメンバーであった藤田さんと一緒に話を聞かせてくれることになったのだ。
早速横浜駅前に向かった!
かつてのバンド仲間とのインタビューが実現!
待ち合わせ場所の高島屋前にいたのは、サングラスがキマる男臭い印象の木原敏雄さん、物静かで優しい雰囲気の藤田潔さん、と対照的だが、同世代より明らかに若い雰囲気を放つオヤジ二人であった。
ここで矢沢さんの初期のバンド名に関して説明すると、ザ・ベース→イーセット→ヤマト→キャロルと活動し、矢沢さんはソロになった。木原さんと藤田さんはザ・ベースからヤマト時代のリードギターとサイドギターの二人だ。
『成りあがり』でも、矢沢さんを含めた三人に関しては、“大バカ三人、ハモリ三重唱、夢が形に、”と表現しているトリオだ。彼にとってはこの二人との出会いは、彼の夢の実現を推進する、運命的なものであったのだ。
木原さん(左)と藤田さん。横浜駅西口五番街の奥にディスコ・グルッペがあった
まずは彼と知り合うきっかけについて藤田さんが話をしてくれた。
「俺と木原は川崎の高校時代の同級生だった。卒業して1968(昭和43)年に神奈川大学に入り、3年生になったとき、バイト先の音楽関係の知り合いづてに、矢沢のバンド“ザ・ベース”に誘われた。
そこである日、待ち合わせ場所の喫茶店・タクトにいると、しばらくして矢沢が来て歌いだした。そこで俺は知り合いのギターを借りて演奏を始め、そのときに彼のボーカルに合わせて何気なくハモッた。すると帰り際に引き留められ、『新しいバンドを作るんだけど一緒にやらないか?』と誘われたんだ」とのこと。
矢沢さんが横浜に着いて最初に働いていたタクトビル
さらに木原さんがメンバーになるきっかけに関しては、
「俺たちがゴールデンカップで演奏していたころ、木原を矢沢に紹介することにした」と藤田さん。
そして木原さんが、
「俺がゴールデンカップで会った時は、彼は長髪をタオルで縛って、ランニングにジーパン姿でやってきた。そして藤田が俺を紹介すると、矢沢はほかのメンバー抜きで3人で楽屋で話をした。そして矢沢は、『俺こんな曲書いてんだ』って歌って見せてくれた。それから2人でビートルズの曲に合わせてハモッたりしたよ。
そして自分はメンバーに入ることになった」とつづけた。
ゴールデンカップのステージ
矢沢さんの音楽性と当時の実力に関して、木原さんは、
「彼は高いキーでも声がぶっとくてシャウトするインパクトがすごかった。バンドは下手だったけれど、あいつの歌で持って行ける気がしたんだ。パレスのときワンステージだけやったら、声が通るからあっち向いてる客を振り返らせた」と言う。
横浜モアーズの裏手にあったディスコ・パレス
また彼は「次はビートルズの新曲『ホープ』、聞いてください』なんて、オリジナルの曲なのにうそを言って歌ったりした。そのあと、だまされて横浜駅東口のスカイビルにあったレコード店、帝都無線に買いに行ったやつが何人もいる。良い曲をいっぱい持ってたからそんな冗談ができたんだろうね」とのこと。
また藤田さんは、
「矢沢の曲作りで憶えてるのは、ちょうど伊勢佐木町のあたりを歩いてたとき、メロディが浮かんだらしく、商店街にあった楽器店に入り、ギターの一弦だけを押さえた指の動きでメロディを憶えて帰っていった。あの時『すごいな!』って実力を感じた。だから後に成功を知った時、『矢沢だから当然こうなるよな』って、驚きがなかった」と答えてくれた。
伊勢佐木町にあるイセザキ・モール