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JR山手駅前の唐突な感じで積まれた巨大な石の正体は?

ココがキニナル!

山手駅を立野小学校側に降りて線路に沿った細い道を根岸方向に進むと、右手にお城の石垣に使われそうなくらい大きな石を使った壁があります。こんなところにナゼ?昔何かあったの?(tanukiさん)

はまれぽ調査結果!

1948年ごろに崖の補強工事としてつくられた石垣。当時の土木科が工事を行ったものと思われる。

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ライター:小方 サダオ

山手の特徴的な石垣ブラフ積み



通行人の方に伺うと「いつも通っているけれど初めて気づいた」という人が多かったが、一様に石の巨大さに驚いた反応を示していた。

坂道の壁面の工事を担当したのは、土木事務所だろう。
そこで中土木事務所の野村さんに伺うと「過去の書類は約5年で破棄されますので、古い記録は残っておりません」とのこと。

この壁面の工事に関する公式的な書類は残っていないようだ。

そこで山手地区の石垣について調べると、山手ならではの伝統的で特徴のある石の積み方があることを知った。それが「ブラフ積み」だ。
 


ブラフ積みの石垣(『都市の記憶 横浜の土木遺産』横浜市歴史的遺産調査会)

『都市の記憶 横浜の土木遺産』によると「山手地区には、1867(慶応3)年以来、石積みの擁壁に整備されていった。対岸の房州石(※注:ぼうしゅういし:千葉県房総半島で採集された石)を使い、長さ70~80cm、高さ20 cmの石材を用いて積む。レンガ積みの長手面と小口面を交互に見せた『フランス積み』に似た積み方で、出所は明確にはわからない。山手にちなんで『ブラフ積み』と呼ばれている」と書かれている。

そのブラフ積みの石垣と問題の石垣に関連性がないか、と山手の各地を散策してみた。
 


ブラフ積みの石垣は山手地区では多く見かける


地蔵坂から桜道、カトリック山手教会から外人墓地と歩くと、いくつものブラフ積みの石垣を発見できた。
 


地蔵坂
 

地蔵坂にあるブラフ積みの石垣
 

長方形と正方形の石が交互に用いられている
 

桜道にあるブラフ積みの石垣
 

絡まったツタが年季を感じさせる
 

カトリック山手教会
 

山手教会の道を奥に進むとブラフ積みの石垣がある
 

横浜地方気象台の石垣
 

外人墓地の周辺の壁面もブラフ積みの石垣だ


また問題の石垣のすぐ近くにある「根岸外人墓地」でも、ブラフ積みの石垣を発見した。
 


横浜市根岸外国人墓地
 

根岸外国人墓地内のブラフ積みの石垣

  
しかし問題の石垣とは積み方も石材も異なる。またブラフ積みの石垣ほど古くはない印象がある。また問題の石垣に似たものは発見できなかった。



問題の石垣について周辺住民に伺う



そこで手掛かりを求めて、再び山手駅前で地元の方にお話を聞いてまわった。

すると1935(昭和10)年生まれのSさんという女性から、次のようなお話を伺った。

「山手駅のあたりは、昔は商店街で、八百屋、下駄屋、電気屋がありました。1964(昭和39)年に駅が出来るということで、みなさん立ち退かれました」
 


駅舎のあたりには商店が並んでいたという
 

山手駅が出来る前の1956(昭和31)年の住宅地図。矢印が問題の石垣の位置
 

1962(昭和37)年の住宅地図。山手駅が建設中だ
 

1962(昭和37)年の住宅地図と現在の衛星地図を重ねたもの


「昔はこの線路沿いの歩道は今より狭かったのです。それは石垣との間に小川が流れていたからです」
 


石垣沿いに小川が流れていたという

      
「川と言っても浅いドブ川のようなもので、上の坂道と合流するあたりで土管へと流れ地面の下に潜っていました。そして小川は東京湾に流れる千代崎川と、大和町商店街のあたりでつながっていました」
 


石垣の前の小川はこのあたりで地面の下に潜っていた
 

小川が大和町商店街の道沿いを流れ、千代崎川へとつながっていた
 

千代崎川にかかっていた橋の跡が残されている


「また道幅が狭くなったこの崖のあたりには、一軒の家が建っていました」
 


電信柱のあたりに石垣と小川にはさまれて家が建っていた

           
「しかし大雨が降ると、このあたりは2つの坂を下りてくる雨水が合流する地点で、この川(=千代崎川)が氾濫することが多かったのです。そのため戦後少し経ったころですが、陳情して川を埋めることにしたのです。しかし今でも大雨が降るとこのあたりは道路が冠水します」
 


現在、千代崎川は暗渠(あんきょ)化されている
 

道の中央の空き地に沿って川が流れていたようだ


「またこの川ではこの先に外人墓地があり、そこを訪れた進駐軍の兵士の乗ったジープが下り坂を曲がりきれず、崖下に落ちて兵士が亡くなった事故がありました」と答えてくれた。
 


根岸外国人墓地

       
そこで「横浜下水道史」を調べると「丘の上の宅地開発が行われるとともに、根岸・北方とこの北部を流れる千代崎川に1962(昭和37)年に覆蓋(※注:ふくがい=おおいかぶせること)工事が一部竣工した」と書かれていた。

石垣の前の小川が暗渠化された時期は千代崎川と同じころかもしれない。また山手駅の1964(昭和39)年の5月に開業に合わせて、小川を埋めて歩道を広くしておくことは、都合が良かった可能性もある。
 


千代崎川の埋め立てについて書かれた看板