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川崎の戦争遺跡、戦時中日吉の連合艦隊司令部に国外からの情報を送っていた「蟹ヶ谷分遣隊地下壕」とは?

ココがキニナル!

昔、蟹ヶ谷に日本軍の通信基地があったそうです。具体的には何をするための施設だったのでしょうか?また、蟹ヶ谷のどのあたりにあったのでしょうか?(ねこぼくさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

蟹ヶ谷バス停のほど近くにあった海軍の通信施設・蟹ヶ谷分遣隊地下壕は、国内外の通信を傍受し、内容を日吉にあった連合艦隊司令部に送信していた

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ライター:細野 誠治

記憶を手繰る。平和都市で資料を探す。(つづき)



空襲による爆撃にも耐えられるよう設計された「蟹ヶ谷分遣隊地下壕」は、全国の職人たちを徴用し建設された。建設期間は分からないが、暉峻氏によれば「ごく短期間だっただろう」とのことだ。
 


急ピッチで作られたであろう地下壕


なぜ蟹ヶ谷という土地だったのだろうか。

それは東京と海軍基地のあった横須賀との中間であり、また電波の受信状況が良かったため(日吉の連合艦隊司令部の立地条件と同じだ)。
もうひとつは東京のような大都会と、軍需物資を作っていた沿岸部の京浜工業地帯に挟まれた「何もない」場所だったから。いわばエアポケットのような地点だったからだという。

当時の川崎市北部(横浜市北部)は、まさにこのような好条件が重なっていたため軍事施設が多数存在していた。
(事実、川崎市北部に位置する、現在の宮前区は全体の約3割が軍事施設だったという)
 


軍事施設の多かった川崎市北部


では実際、内部構造はどうなっていたのだろうか?
川崎市平和館の模型が詳しい。
まず地上に出ている敷地面積が18.7ヘクタール(横浜スタジアム約7個分)。そこに22棟の建物があり、無線電信用の鉄塔が6本。さらに多くの電柱が立てられアンテナ線を張り巡らせていた、とある。
 


当時の様子が分かる貴重な写真
 

地下壕の平面図


地下壕は3つの入り口が作られ、大きな部屋が電信室。多くの通信機材が置かれていた。
向かって左側に発電室。エンジンと発電機を設置したボルトと高圧碍子(がいし=絶縁体のこと)が残存している、とある。
 


 

調査の折に撮影されたと思しい地下壕の内部写真


中に入ることができるのだろうか?
蟹ヶ谷分遣隊地下壕を所管している川崎市平和館。内部調査を希望するが、30年ほど前に壕が崩落してしまったために現在、入ることができないそうだ。
「崩落に加え、水が出ています。さらに内部でガスが発生していて人が立ち入れない状況です」と暉峻氏。
 


崩落により、もう見ることができない・・・


この「蟹ヶ谷分遣隊地下壕」はこの先、どうなるのだろう? 調査を行った後に壊すのか、それとも残すのか?
所管する平和館の答えは「現状維持」。

日本の各地に置かれた「戦争遺産」は蟹ヶ谷分遣隊地下壕と同じく、例外を除き「現状維持」されている。
もう少し言おう。「現状維持」され、朽ち果ててゆくのだ。
 


予算の問題もある。安易に決められることではない


時計の針を進めよう。戦況の悪化から、終戦までだ。
日本は追い詰められてゆく。諜報活動を行っていた蟹ヶ谷分遣隊地下壕では、捕らえた捕虜を使い通信の解読を行っていたと資料にはある。
 


捕虜の使役は国際法に違反する行為だ


本当だろうか? 寄せた資料には当然のように「使役」とある。
だがこの話には、現在まで確証は得られてはいないという。
壕を訪れたものが「アジア人ではない外国人を見た」という証言があるという。
 


真相は藪のなかだ


やがて終戦。当時、約200名が昼夜2交代で通信の傍受を行っていた。彼らがその後、どのような道を歩んでいったのかは分からない。

そして進駐軍が到着。内部を「徹底的に破壊した」という。

終戦から70年。混乱期だったであろう。それにしてもこの蟹ヶ谷分遣隊地下壕は「分からない」ことが多い。



鈍色、草のいきれ、そこにあるもの



お話を聞かせていただいた暉峻氏にお礼をして、現場を見に行く旨を告げる。
すると「初見で見つけ出すのは難しいですよ」と暉峻氏。

分かっています。行ってみて難儀しました。でも、今度は資料があるので大丈夫です。
 


再びの蟹ヶ谷へ。バス停前の106号線を北へ。坂を下る
 

写真左手の山がそうだ。宅地や畑に遮られているのでグルリと回る
 

大回りをして道を見つける。鬱蒼とした森だ


史料写真で見た、拓けた場所に立つ宿舎など面影もない。70年、時間の経過とはこういうことかと感慨深い。
 


あぜ道を進む。森がせり出し、迫ってくるようだ。
 

行き止まりに看板があった
 

説明を読む
 

看板脇には入り口が。当然だが入ることはできない
 

鉄塔はすでに無く、携帯電話会社の電波塔がいくつも建てられていた


通信の傍受・送信を行っていた、かつての基地跡の敷地部分が、そっくりと周りから取り残されている格好。そこに今は電話会社のアンテナとは少し皮肉だ。