第10代「横浜市長」の記念碑が「川崎市中原区」にあるのはなぜ?
ココがキニナル!
第10代横浜市長として関東大震災からの復興事業や区制施行で横浜の礎を築いた有吉忠一の記念碑が川崎にできたとか。なぜ川崎なの?(てんぱれさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
有吉忠一が神奈川県知事時代に築いた代用堤防「有吉堤(てい)」100周年を記念して、川崎市中原区の中丸子公園に記念碑が建立された
ライター:岡田 幸子
切れ者・有吉忠一の輝かしい治績とは?
有吉忠一は1873(明治6)年、現在の京都府宮津市で、宮津藩藩士から京都府職員、葛野(かどの)郡郡長などを歴任した有吉三七(ありよし・さんしち)の家に生まれた。
幼いころから俊敏で、将来を嘱望(しょくぼう)されていた忠一は、帝国大学法科大学法律学科(現在の東京大学)に進み、英法科を優秀な成績で卒業。1896(明治 29)年に、地方行政や警察などの国内行政を担う内務省に入省し、以来一貫して内務畑でその手腕を発揮してきた。
1908(明治41)年には千葉県知事に就任。県の発展には鉄道網整備が不可欠とし、全国初の県営鉄道として「千葉県営軽便鉄道(現在の東武野田線の一部など)」を開通させた。
簡便な規格で安価に敷設できる軽便鉄道(稲野辺実氏所蔵・富里市広報より許可を得て転載)
この整備は、新設されたばかりだった陸軍の鉄道敷設部隊・鉄道連隊の設軍事演習という名目で建設が行われたという。
鉄道連隊では材料費のみの負担で鉄道建設を請け負っていた。また当時、日露戦争での権益確保のためにドイツから輸入された後、軍で保管していた鉄道備品を活用したため、大幅なコストダウンに成功した。
出征を見送る人々と軽便鉄道(伊藤勲氏所蔵・富里市広報より許可を得て転載)
1911(明治44)年から5年半に渡って務めた宮崎県知事時代にも、「宮崎県営鉄道妻線(JR九州日豊本線・国鉄妻線の一部)」と「飫肥(おび)線(JR九州日南線の一部)」の敷設を実行。さらに、日本初のアカデミックな調査であったと言われる西都原(さいとばる)古墳群の発掘調査も行うなど、文化面での功績も多く残している。
1915(大正4)年に神奈川県知事に就任すると、地域住民の悲願であった多摩川築堤問題に着手。内務省からの中止命令を受けたにもかかわらず、県民本位の姿勢を貫いて築堤を実現し、「有吉堤」と呼ばれる代用堤防を完成させた。
代用堤防とは道路をかさ上げして堤防の代わりとしたもの。のちに詳しく解説するが、この「有吉堤」築堤の偉業が、今回の記念碑建立につながったのだ。
多摩川を視察する有吉忠一(有吉美知子氏所蔵・横浜開港資料館寄託)
その後は1919(大正8)年より兵庫県知事、1922(大正11)年より朝鮮総督府政務総監などを歴任した後、1925(大正14)には、横浜市政界一致の要望を受けて横浜市長に就任。関東大震災後という難局を打破しながら治績をあげて、横浜市の新たな発展への足がかりをつくった。
震災復興の一部として有吉市長が建築した鉄筋コンクリートの小学校校舎は、1945(昭和20)年の空襲時にも焼け残り、多くの命を救ったという。
鉄筋コンクリートの小学校校舎は多くの命を救った(写真はイメージ)
横浜に区政を敷いたのも有吉忠一なら、横浜港を拡張したのも彼。さらに開港記念日を6月2日と定めたのも彼であり、関東学院やホテルニューグランドなどの創設にも関わっている。
1929(昭和4)年5月に市長の任期終了が迫ると、商工会議所、青年連合団、弁護士会、連合婦人代表、在留外人団などを含む、市内の各方面から留任運動が起こったという。
各団体代表からの留任懇請を受ける有吉忠一(有吉美知子氏所蔵・横浜開港資料館寄託)
その卓越した手腕が、当時の横浜に暮らす人々から強く求められていたものだったという事実がうかがえるエピソードだ。
「県民ファースト」の姿勢から生まれた「有吉堤」
さて、そんな輝かしい閲歴を持つ有吉忠一が、神奈川県知事時代に川崎市に築いたのが、代用堤防「有吉堤」。「あばれ川」として大雨のたびに洪水を起こし、周辺住民を悩ませてきた多摩川の治水を、大きく前進させたものだ。
首都圏の一級河川としては比較的勾配が急な多摩川流域では、毎年のように起こる水害に住民たちが疲弊していた。不満を募らせた当時の橘樹郡御幸村(現在の川崎市幸区、中原区の一部)住民が、1914(大正3)年9月16日未明に決起し、アミガサをかぶって県庁に押し寄せて築堤を迫ったのが「アミガサ事件」だ。
「チョンボリ」とも呼ばれたアミガサ(『川崎信用農協30年史』より)
農業や河川漁業、川砂利の採取で生計を立てていた住民たちには、多摩川の水害は死活問題。危険を冒してでも立ち上がるべき、大きな理由があったのだ。
そのような陳情を受けても、川崎側での多摩川への築堤はなかなか進まなかった。「帝都・東京」を重視する国策によってか、東京府側には当時でも立派な堤防が築かれていた。しかし、神奈川県側の河川改修申請は、不認可となっていたのだ。
この状況を打開したのが、事件の翌年に神奈川県知事に就任した有吉忠一。河川法に基づく河川改修が認められないのであればと、多摩川に沿って走る里道設備を指示。これをかさ上げする形で、道路改修の名を借りて代用堤防を築くことを決定した。
河川改修がダメなら、道路を高くすればいいじゃん!
県費補助を受けての工事が始まると、川崎側の住民たちは大喜びで労働に従事したという。これに慌てたのが、この工事により再度洪水への不安が高まった東京側の住民。毎日100人単位の監視を繰り出して工事を妨害する一方で、内務省に働きかけてなんとか工事を中止させようとした。
内務省は工事中止命令を出すに至るが、有吉知事はこれに反発。高さ「一尺八寸(約55cm)」、長さ「1200間(約2180メートル)」の代用堤防を見事完成させたのだ。
当時の「有吉堤」は地図内青点線あたりの2km強
この代用堤防「有吉堤」築堤についての独断により、のちに有吉は大隈内閣から譴責(けんせき)処分(懲戒処分の一種)を受けることとなる。しかし、有吉は「名誉の譴責と心得る」と語り、今でいう「県民ファースト」の姿勢を崩すことがなかったという。惚れてまうがな!
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