東京都渋谷区と神奈川の高座渋谷は同じ一族がルーツだったって本当?
ココがキニナル!
東京・渋谷と神奈川の高座渋谷は同じルーツだそう。武蔵国と相模国の両方に領地を持っていた渋谷氏に関して由来が知りたいです。どちらかの地域に末裔に当たる方はいるのでしょうか(栄区かまくらさん)
はまれぽ調査結果!
渋谷氏の祖である渋谷重国は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武将。渋谷区と同じルーツかは、諸説あるが確証はない。大和市渋谷に末裔はすでにおらず、綾瀬市に存在した
ライター:松崎 辰彦
大和市渋谷と渋谷区――歴史が生み出した不思議な関係
それでは投稿の「東京・渋谷と神奈川の高座渋谷は同じルーツ」という記述について考えてみたい。
大和市渋谷と東京都渋谷区を結びつける説は昔からあったようである。
そうした憶測があったことを示すように、1952(昭和27)年発行『渋谷区史』(渋谷区役所発行)には「又、相模国高座郡澁谷庄に在つて澁谷姓をはじめた相模澁谷氏と、本区内に居住したと言われる澁谷氏とを本分家の関係に説くことも単なる想像であつて確定すべき史料を伴わない(渋谷区史より引用)」と記されている。
ここでは二つの「渋谷氏」を結びつける確証がないことが強調されている。
東京都渋谷区
しかし大津氏はいう。
「すでに『渋谷』と地元の人間に呼ばれていた土地に住み着いた若い重国は、みずからの姓を“渋谷”とした。そして彼の子孫も “渋谷”姓を名乗るようになった。しかし『和田の乱』で彼ら子孫の一部は武蔵国の、当時は谷盛(やもり)と呼ばれていた土地に移住し、武将として支配するようになった。彼ら渋谷一族が支配する土地は、当然の如く人々から“渋谷” と呼ばれるようになったのでしょう」
――1213(建暦3)年、御家人であった和田義盛(わだ・よしもり)が執権北条氏を倒すために挙兵した「和田の乱」で、重国の次男・渋谷高重(しぶや・たかしげ)が和田方についた。この反乱で和田が敗北し、高重の一族は執権から領地を没収されるなどの処遇を受け、居住していた相模国を離れなければならなくなった。そこで一部の人々は当時、武蔵国の「谷盛(現在の渋谷)」 と言われた地域に逃れ、当地で所領を得た。かくして谷盛は“渋谷一族の土地”なので「渋谷」と呼ばれるようになった――
・・・これが大津氏の見解である。
渋谷重国と関係あるのか? そんな渋谷を見守る忠犬ハチ公
東京都渋谷区に関しては、渋谷重国由来の説とは別の説もいくつかあるが、いずれも現在まで確証は見つかっていない。
もう1ヶ所、神奈川県には渋谷重国ゆかりの場所がある。足を運ぼう。
綾瀬市にある渋谷重国の居城「早川城」
神奈川県綾瀬市。ここに渋谷重国の城と言われる早川城跡がある。現在は「城山公園」として整備されているそこは、綾瀬市役所から歩いて13分ほどの場所である。
城山公園内に「早川城跡」がある。そばに目久尻(めくじり)川が流れている
この城山公園の「早川城跡」について、綾瀬市教育委員会生涯学習部生涯学習課市史文化財担当の井上洋一(いのうえ・よういち)氏に話を伺った。
井上氏
「『早川城』と言われていますが、実は文献の記録がないのです。すべて状況証拠による推論で、ここが渋谷一族の居城だったのではないかと考えられています」と井上氏。
綾瀬市にある城山公園。高座渋谷駅から西に約4kmの場所
「ここは地理的に渋谷荘の中心に当たる場所です。そのことからもここが渋谷氏ゆかりの城だったことは間違いないと思われます」
これまでさまざまな調査が行われてきたようである。
案内板を指しながら解説してくれる
発掘調査の結果、この場所に構築物があったことはたしかだが、生活の場だったにしてはあまりに出土品が少なく、継続的な生活を営んでいた証拠がない。したがってここは常に人がいて日々の暮らしをしていた場所ではなく、非常時に皆が集まる砦だったのではないかと推定されている。
物見塚や堀など、周囲への監視機能や防御の備えもあることから、戦時を想定した構築物――“城”だったことは間違いないという。
早川城跡を示す説明板
物見塚(左)や建物があった跡がある
渋谷氏と早川城跡についての説明板もある
「このすぐ近くには『宮久保(みやくぼ)遺跡』があります。そこは旧石器時代からその後に至るまで、多くの人の居住地になっていたことがわかっています。おそらく武士たちは普段は宮久保遺跡の方で生活し、緊急時には早川城に集合して臨戦態勢をとったのではないでしょうか」
早川城跡周辺にはいくつかの遺跡がある。(『写真で見るあやせ』より転載。原画像は神奈川県政策局政策部蔵)
宮久保遺跡発掘風景(画像提供:神奈川県教育委員会)
各地に土着して生きた人々
城山公園には、渋谷一族に関連するものがほかにもある。それは、早川城跡の一角にある「東郷元帥祖先発祥之地(とうごうげんすいそせんはっしょうのち)」と彫られた碑。東郷平八郎(とうごう・へいはちろう)海軍元帥の祖がここ渋谷荘に発祥することを宣(せん)したものだ。
「東郷元帥祖先発祥之地」
重国の長男・渋谷光重(しぶや・みつしげ)は、1247(宝治元)年の「宝治合戦」で武功を立て、幕府から新たに薩摩国(九州)の地頭職に任ぜられた。光重は5人の息子を現地に下向(げこう、都から地方に行くこと)させ、5人それぞれが薩摩国の領地を管理した経緯がある。
その中で次男の実重(さねしげ)は現在の鹿児島県薩摩川内市東郷町の地頭となり、東郷氏を名乗るようになった。この家系の子孫が日露戦争の英雄である東郷平八郎である。
東郷平八郎(Soerfm [CC BY-SA 4.0])
綾瀬市と東郷元帥の結びつきは初めて聞く人には意外ではなかろうか。
井上さんは「渋谷一族に関して言えば、全国各地に赴いて、そこに土着して生きていく人々という印象があります。島根県や岡山県、三重県などにもわたり、その地で根を張って生活しています」と話す。生命力あふれるたくましい一族だったようである。
こうして渋谷一族の存在に意識を向けると、当然ながら一つの疑問が湧いてくる。
この人たちの末裔は、いま生きているのだろうか?
大津氏は「大和市渋谷には末裔はいません」という。しかしさらに述べる。
「綾瀬市にはいます。現在、済運寺(さいうんじ)の近くに住んでおられます」