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横浜市神奈川区の青木橋近くにある本覚寺。その巨大な石積みの震災復興史を紐解く

横浜市神奈川区の青木橋近くにある本覚寺。その巨大な石積みの震災復興史を紐解く

ココがキニナル!

青木橋近くの本覺寺を支える道路擁壁は昭和3年に復興局によって築かれたものだとか。ただの土留めの石積みではなく、関東大震災復興の土木遺産と言うべきもの。復興の歴史を取材してみませんか?(ねこぼくさん)

はまれぽ調査結果!

全潰レベルの震災被害から復興を遂げた古寺・本覺寺。その一環として修復された道路擁壁は、足下の鉄道擁壁との形状の調和も配慮された。また、横浜にはほかにも貴重な復興局施工の道路擁壁が残る。

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ライター:結城靖博

本覺寺の震災被害と復興の経緯



山門は震災で倒壊・焼失することがなかった。では、本覺寺全体の震災被害はどのようなものだったのだろうか。
それを知る前に、本覺寺周辺の被害状況を記録した写真を見てみよう。

下の写真は現在の神奈川駅周辺を撮ったものだ。ただし平沼方向を望んでいるので、残念ながら本覺寺は撮影者の背後か。いずれにしても一面焼け野原であることはよくわかる。そこに間に合わせのバラック小屋(簡易住居)がポツンポツンと建っている。

 
神奈川区の本覚寺
震災直後9月中旬頃の神奈川方面の状況(横浜市史資料室所蔵)
 

1923(大正12)年9月1日11時58分、関東を突如襲った巨大地震が招いた神奈川子安方面の被害を、2年後に発行された『横濱復興録』が生々しく伝えている。
「高島町ライジングサン石油会社及びニューヨーク石油会社の貯蔵庫の爆発により、重油は火を乗せたまま帷子川、新田間川に流れ入りて筏を焼き艀船を焦き、果ては橋梁をもなめ尽し、一方青木町字鶴屋町、上下台町一帯を全焼し、なおその余焔は炎々数日に及んだ」(新漢字、現代仮名遣い、一部ひらがなに変更)

では、本覺寺自体の被害はどうだったのか。1932(昭和7)年発行の『横濱復興誌 第四編』に同寺の被害状況が詳しく書かれていた。
「本堂、鐘楼堂は全潰し、庫裡方丈等は傾斜し、海抜六千尺の高地に位せる境内の高さ平均十八尺延長二十二間の石垣その他崖地の崩壊せるもの数箇所」(新漢字、現代仮名遣い、一部ひらがなに変更。一部句読点挿入)
本堂、鐘楼が全潰、石垣その他崖地は数ヶ所崩壊したとある。

 
神奈川区の本覚寺
これは現在の本堂
 
神奈川区の本覚寺
そして鐘楼
 

そんな本覺寺の復興の経緯も、『横濱復興誌』は伝えている。
そこには「先づ崩壊せる石垣を再築し崖地を修理し」、その後「大正十四年九月鐘楼堂を再建」と書かれている。キニナル投稿では1928(昭和3)年に復興局が道路擁壁を築いたと指摘しているので、同書に書かれた石垣・崖地は境内の別の箇所のことだろうか。

続いて同時期の都市計画事業の一環として境内の一部がまたもや収用され、建築物の移動、仮本堂の建築、方丈の改築などを経て、「昭和三年九月第一期予定の工事を完了」と書かれている。

この復興経緯を綴る文中には「高さ平均二十尺延長六十尺の鉄筋混凝土擁壁も築き」という箇所もあるので、これが道路擁壁のことを指しているのかもしれないが、同資料では確認できなかった。



本題の道路擁壁に迫る



そろそろ本題の道路擁壁そのものに、あらためて目を向けてみよう。

 
神奈川区の本覚寺
確かに立派な擁壁である
 

この角度から見ると、なんだか本覺寺境内の建物が山城のようにも見える。

 
神奈川区の本覚寺
近くに寄って見ると歴史の重みを感じる
 

とは言っても昭和の初めの築造なので、近世の城郭の石垣とは少し趣が異なる。

だが、ほんとうにこの擁壁は、1928(昭和3)年に復興局によってつくられたものなのだろうか。それを確証する古い記録(一次資料)は残念ながら今回見つからず、また、本覺寺の守長尚文(もりなが・しょうぶん)住職にも尋ねてみたが、震災と道路擁壁の関係はわからなかった。

ところが後日、中区・日本大通りにある横浜都市発展記念館の副館長、横浜の土木遺産に造詣の深い青木祐介(あおき・ゆうすけ)氏から、貴重な二次資料をご教示いただくことができた。

 
神奈川区の本覚寺
横浜都市発展記念館は横浜情報文化センターの建物の中にある
 

その資料とは1988(昭和63)年に発行された『都市の記憶―横浜の土木遺産』だ。その中で「本覚寺付近擁壁」が紹介されていた。
そこには、この擁壁が復興局によって設計され、1928(昭和3)年に建設されたことが確かに記載されていた。
ちなみに構造は「割石練積(わりいしねりづみ)」。「割石」とは切断加工せず割ったままの断面を持つ石材だ。

 
神奈川区の本覚寺
斜めから見ると断面のガタガタ感がよくわかる
 

また「練積」とは、石と石の間にモルタルやコンクリートを流して接合するもの。そこは外観だけでは、素人目にはちょっとわからない。

さらにこの擁壁の積み方は「谷積(たにづみ)」と呼ばれるそうだ。谷積とは石の角を垂直に立てて積む方法で、石が菱形に配列されているように見える。

 
神奈川区の本覚寺
本覺寺の「谷積」
 

なぜ、そのような積み方をしたのか? それは第二京浜を隔てて存在する鉄道擁壁との「景観的調和を配慮して」のことだと同書は指摘。また谷積石垣は、鉄道関係特有のものだそうだ。
なお、この場所の鉄道擁壁も震災後の昭和初期につくられたものだが、正確な年月は不明。

 
神奈川区の本覚寺
青木橋から望む道路擁壁と鉄道擁壁との調和
 

今では鉄道擁壁の前がゴチャゴチャいろいろなものに覆われているのでわかりづらいが、その上部にわずかに覗く箇所をよく見ると、確かにこれも「谷積」だ。