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生田緑地にある岡本太郎ミュージアムはどんな感じ?

ココがキニナル!

岡本太郎ミュージアムがキニナル!ぜひ取材してください!(fragile dancerさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

川崎市岡本太郎美術館は“随所に遊び心が溢れ、作品を身近に感じることができる空間”だった!

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ライター:松宮 史佳

「友達は太陽だけ」過酷な幼少期



岡本太郎は1911年川崎市高津区に生まれ。父は漫画家の一平、母は歌人で小説家のかの子。
著名な両親を持ち、何不自由なく暮らしていたのかと思いきや、太郎の幼少期はとても過酷だった。

さっぱりした一平と感情的なかの子はまるで正反対。夫婦仲は荒れ果て、一平は放蕩三昧に。かの子は「遊んでほしい」と泣きわめく幼い太郎を柱に括り付け、創作に没頭したという。太郎が物心つく頃には両親と太郎・母の恋人と同居していた。

 


岡本家の人々:左からかの子、太郎、一平(館内展示より)

 

小学校に上がった太郎は頭ごなしに怒鳴る教師と合わず、不登校に。友達もできない孤独な状況の中、唯一の友達だったのが“太陽”。太郎は太陽をモチーフにして多くの作品を創ったが、原点は小学1年生の時にあった。

 


太郎の生涯は世間や社会、自分との闘いだった(館内展示より)

 

1929年、太郎が19歳の時に両親と母の恋人、書生の5人でヨーロッパへ。
翌年太郎は絵を勉強するために1人フランスのパリで暮らす。だが、思うように絵を描けず、苦悶の日々。

21歳でピカソの作品と出会い、抽象画の道へ。だが“具象的なものと抽象的な要素、2つの異なるものがぶつかることで新たなエネルギーが生まれる”という「対極主義」を確立。その後はソルボンヌ大学で哲学や社会学、民族学を学んだ。ある日、「守るから弱くなるんだ。選択肢があったら必ず危険な方を選ぶ」と悟り、生涯に渡り貫く。

その後、1940年にドイツ軍がパリに侵攻し、日本へ帰国。徴兵され、31歳の初年兵として中国戦線へ。厳しい兵役生活を送った。



「川崎市岡本太郎美術館」創立のきっかけ



1946年、太郎は復員し、世田谷区上野毛にアトリエを構え活動を開始。ピラミッド型の画壇界をひっくり返そうと「絵画の石器時代は終わった。新しい時代は岡本太郎から始まる」と新聞紙上に宣言。積極的に芸術運動に参加した。

この頃、太郎は後に公私に渡るパートナーで太郎の養女となる平野敏子(後の岡本敏子)に出会う。生前はあまり評価されなかった太郎。没後に再評価されたのは本の出版や講演会など、敏子の力が大きかった。太郎は生前、「身近にいる人の協力のおかげで岡本太郎が生まれるんだ」と言っていたそうだ。

「敏子さんには大変お世話になった」という佐藤さん。敏子さんはかわいらしい方で「それすごくいいわね!どんどんやっちゃいなさいよ」といつも若い人を励ましていたとのこと。

太郎は1950年代から「芸術は一般の人に広く開かれてなくてはならない」と言っていた。
現在では“いつでも誰でも触れることができる”パブリックアートが全国に約70ヶ所設置されている。

 


1985年にそごう開店を記念して創られた「太陽」

 

1989年はかの子、1990年は一平、1991年には太郎のイベントと岡本家のイベントが3年連続で川崎市市民ミュージアムで開催。そこで当時の市長が太郎に作品の寄贈を依頼した。

太郎は“一般の人が見られるために”と主要作品のほとんどを売らず手元に残しており、「作品すべてを寄贈する」と申し出たのが「川崎市岡本太郎美術館」創立のきっかけになった。

残念ながら、太郎は1996年1月、急性呼吸不全により死去したため、美術館の完成は実際には見ていないが、建設決定から8年後の1999年に美術館が完成した。現在同館では絵画150点、彫刻100点など、オブジェやドローイングなどを含め、1,800点の作品を所蔵している。

ここで佐藤さんと別れ、1人館内へ。



館内へ突撃



館内には「常設」と「企画」の2つの展示スペースがある。
「常設」もテーマを設け、年4回作品を入れ替えるとのこと。

現在「常設」は「パブリックアート展」。「企画」では「岡本太郎現代芸術賞展」が開催されている。

来館者は20代から30代の若者や家族連れが多い。
没後発売された太郎の本を読み、来館する人が多いそうだ。

 


彼氏に誘われて来たという横浜在住の女性

 

常設入口を進む。すると強烈な色が!

 


まさに岡本太郎色!原色の「赤い部屋」

 

現在「常設」で開催中の「パブリックアート展」は、2011年にパブリックアートを紹介するパンフレット「TARO MAP」を製作したのがきっかけになったそうだ。

常設スペースは迷路のような造り。順路がないという自由な感じが太郎らしい。

 


抒情的な「傷ましき腕」1936年制作/1949年再制作

 

太郎は「ぶっつけ本番で絵を描いている」というイメージだが、実際は最初に「何を描くか」明確にイメージしてドローイングを繰り返し、徐々に作品を大きくしていったそうだ。

 


井の頭線
渋谷駅に設置されている「明日への神話」1968-69年制作

 

そして、館内で一番人気の「坐ることを拒否する椅子」へ。
子供も大人も「痛いっ!」と言いながらもまた他の椅子に座ってしまうのがおかしい。

 


独特な座り心地「坐ることを拒否する椅子」1963年制作
 

そごう横浜店の屋上にある「太陽」1985年制作(右)の縮小版

 

ここで再び、佐藤さんに会う。
「岡本太郎現代芸術賞展」受賞者が来館するので、会わせていただけることに!