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鎌倉の建長寺、「華厳塔」再建計画はどうなってる?

ココがキニナル!

鎌倉の建長寺で華厳塔の再建計画があるらしいのでどうなっているのか取材してほしいです。(できれば、円覚寺の華厳塔跡と、鶴岡八幡宮の多宝大塔跡も取材してください。)(にゃんさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

建長寺では、開山750年大法要(2028年)に向け、鎌倉時代の「華厳塔」を再建しようと、詳しい研究を始め、浄財を募り始めている。

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ライター:吉岡 まちこ

塔についてはまだ謎がいっぱい



JR横須賀線北鎌倉駅から鶴岡八幡宮へ向かうとき必ず通る建長寺。栄西が宋から伝えた禅宗の一派、臨済宗建長寺派の大本山だ。
その建長寺には、創建当時から「華厳塔」と呼ばれた塔があったのだ。三重塔とも五重塔とも、さらには七重塔だったという説まである。
 


建長寺天下門。鎌倉五山
中国の五山制度にならって設けられた五大官寺)の第一位
第二位は円覚寺、第三位は寿福寺、第四位は浄智寺、第五位は浄妙寺)


建長寺は1253(建長5)年、名君と言われた鎌倉幕府五代執権・北条時頼が、南宋から来日した僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を招いて創建。
創建当時は七堂伽藍を持つ大寺院で、その後、49の塔頭(たっちゅう=小寺院)もでき、日本初の禅の専門道場として、多い時には1,000人を超す修行僧が厳しい修行を重ねていた。
今の建長寺には12の塔頭があるので、どれだけ隆盛を極めていたかわかる。

どこに、どんなふうに、華厳塔はそびえていたのだろう? 
そこで、建長寺財務部の青柳部長と内務部の大蔵さんにお話しを聞いた。財務部、内務部といってももちろん剃髪に作務衣姿、そして若いお坊さん方だった。
 


宗務本部の場所は法堂より先、庭を眺める建物の手前


まず、華厳塔があったことを示す物として、建長寺の宝物に『建長寺伽藍指図(さしず)』(1331年 元弘元年)という創建当時の伽藍を描いた設計図があると教わった。塔の絵は載っていないが“塔頭と華厳塔は除く”という一文が書き添えてあるのだそうだ。

“除く”の解釈について青柳部長は「この地図は原本ではなく、京都東福寺の大工さんが建長寺の伽藍配置を手本とするため、江戸時代に書き写したものです。中心になる伽藍配置だけを描いた図なので、塔や塔頭は“描きませんでした”という意味ではないでしょうか」とのこと。
 


禅宗独特の一直線に並ぶ伽藍は、建長寺がお手本だった


華厳塔が古くからあったことは確かだが、大蔵さんも「華厳塔の再建計画の話はまだ最近出たばかりで、塔の詳細については私たちも確かなことはわかっていません。今はとにかく古文書学者の方に研究をお願いしている段階です」と言う。
その古文書研究者への取材は、まだ調査段階で発表まではいたらないという理由で無理だった。

ネットで検索していると、同じ北鎌倉にある東慶寺の前住職・井上禅定(いのうえぜんじょう)師が書いた『駆込寺 東慶寺史』(1980年 春秋社)という本のweb版にヒットした。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/inoue-zenjo-tokeiji-02.htm
 


東慶寺は臨済宗円覚寺派


その第10章「建長寺華厳塔」を読むと、1323(元亨3)年、鎌倉幕府第9代執権北条貞時夫人の覚海円成(かくかいえんじょう)が亡き夫の13年忌に建長寺に三重塔を建てたとある。
「建長寺華厳塔供養疏」(建長寺蔵)や「貞時十三年忌供養記」(円覚寺蔵)に書かれているそうだ。

その後も火災などに遭い、いつまであったかは不明。江戸初期の古地図「建長寺境内絵図」(伝延宝図、建長寺所蔵)には塔の姿はなく、「華厳塔址」と書かれているのみだ。


塔があった場所を見に行ってみた!

古絵図に「華厳塔址」とあるその場所は、いま河村瑞軒(江戸幕府の公共事業に関わった豪商)の墓があるあたりと言われている。
墓は、奥の半増坊へ行く道を途中で左に逸れた丘の上。山門からはけっこう遠い。
 


左の階段を上がって行くと河村瑞軒の墓に着くはず
 

だんだんうっそうとしてくるけれど、階段はまだまだ序の口


落ち葉の感じからあまり人が来ていない気配がひしひし。うっそうとした木立の中、階段をかなり登った先に突然平らな場所がひらけた! 15m×15mは軽くありそうな平地。
 


河村瑞軒と息子の墓(奥が瑞軒)がポツンとある


1934(昭和9)年、西側の草むらの中にあった河村瑞軒の墓を今の場所に移動。その参道の工事をしている時に塔心の穴に掘り当たったと、先の『駆込寺 東慶寺史』にある。
直径75㎝、深さ1mの穴の中から経典の文字が書かれた経石(きょういし・きょうせき)が約100個みつかり、そのうち40個ほどは神奈川県立歴史博物館に保管され、この秋ちょうど特別展(10/6~『再発見!鎌倉の中世』)で見ることができるそうだ。

残念なことに塔心の穴は、工事作業中にコンクリートで埋め戻され参道になってしまったらしい。
 


どこにあったのだろう?と参道を振り返ってみる…


頂上が忽然と平らになっているとは言っても、右側は高い岩盤がそびえ、くりぬかれた谷戸の行き止まりという感じ。左側の崖下は鎌倉学園のグラウンド。グラウンド側からなら塔の全貌を見上げられるのかもしれない。
 


ここに華厳塔が!? 右手には切通しみたいに岩の壁が迫っている
 

左手の崖から下を見おろすと、すぐ下に鎌倉学園のグラウンド
 

ここにあった、高さ20mを超えると言われる「華厳塔」。いったいどんな姿だったのだろう。
参考までに、興福寺の五重塔は高さ約50m、龍口寺の五重塔は高さ約30mだ。