名刀正宗、その子孫が鎌倉で包丁を製作しているって本当?
ココがキニナル!
鎌倉で正宗の子孫の方が包丁を作られてるらしいので取材してください。気になります。(にゃんさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
鎌倉時代から受け継がれてきた刀匠、正宗。現在は、24代目にあたる方が、鎌倉市御成町にある「正宗工芸美術製作所」で、刀や包丁などを製作している。
ライター:河野 哲弥
あまり知る機会のない、日本刀の歴史
「正宗」という名称。
時代劇などで、刀の名前として耳にすることが多いが、本来は鎌倉時代から南北朝にかけて活躍した、刀鍛冶の名工であるようだ。そして、その子孫が今でも鎌倉にいて、包丁などを製作しているらしい。
鎌倉駅から歩いて5分ほど、御成町にある「正宗工芸美術製作所」外観
表札や店舗の看板では、「正宗二十四代綱廣(つなひろ)」であることをアピール
思えばこの日本刀、日本文化の象徴でありながら、その実態はあまり知られていないような気がする。一体どのような歴史があるのか、この機会にぜひ、切れ味鋭く伺ってみたい。
日本刀の製作には五大流派がある
店舗で待っていてくださったのは、初代の「正宗」から数えて24代目となる、刀匠の山村綱廣さん。「正宗」という名前は、包丁などに刻む銘のような使われ方もするし、屋号のようにも思えるが、実際のところよく分からない。
その点を尋ねてみたところ、まずは日本刀の五大流派の話から、説明していただくことになった。
お話を伺った、正宗二十四代山村綱廣さん
山村さんによると、かつての日本刀は、主に「備前」「美濃」「大和」「山城」「相州」の各派によって製作されていたそうだ。
このうち「備前派(正式には備前伝・現在の岡山県南東部を中心とする派)」の周辺で戦が多かったため、日本刀の約7割は同派によるものであったらしい。
相模州を中心として活動していたのが「相州派(相州伝)」。その始祖の名前が、名工「正宗」という訳である。したがって、「正宗」とは人の名前であると同時に、「相州伝」によって作られた刀の証ということになる。
山村家に伝わる、初代正宗から続く家系図
正宗の父親は、鎌倉出身で京都の刀工、行光という人になる。ここからは確証のない伝説だが、どうやら行光が京都で修行をしている間に生まれたのが、後の正宗であるらしい。
行光の没後、彼は父親の故郷を訪ねようと鎌倉を訪ねた。そこで日蓮聖人に出会い、禅宗を正しく理解する者という意味の、「正宗」と命名してもらったそうだ。
氏神様として祭られている「正宗」の肖像画
鎌倉時代以降の相模州は、あまり戦の舞台とならなかったため、刀の生産量としては全体の1割程度なのだとか。しかし、小田原北条氏や徳川家の御用鍛冶として、着実なニーズがあったとのこと。
また、刀が持つ意味も、従来の戦闘用の武器から、次第に護身用のものへと変化していったそうだ。それが、「相州伝」の大きな特徴となっている。
ショーウィンドウにある、「刀のできるまで」
正宗の弟子たちについて、こんなエピソードがある。あるとき、2人の弟子が自慢の技を競い合い、川の中に自作の刀を立て、上流からワラを流すことになった。
一方の刀はワラを吸い寄せ、ものの見事に切り刻んでいった。もう一方の刀はワラを寄せ付けず、ついに一片も切ることができなかった。これを見た正宗は、なんと後者の弟子を、後継者に指名したのである。
「切れ味を競うのが名工ではない」
敵を寄せ付けず、持ち主を無事生きながらえさせるのが、本当の刀鍛冶という訳だ。しかしこの話、山村さんによれば、少しマユツバなのだとか。
初代正宗が弟子を選んだ時期と、刀に護身用の意味合いが生じてきた時期には、隔たりがある。それでもなお、名工とは何かを物語る逸話として、今に伝わっているとのこと。
では、現代の名工はいかに。続いて、鍛冶場を見学させていただいた。