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かつて世界を驚がくさせた横浜独自の焼き物、眞葛焼。現状はどうなっているの?

ココがキニナル!

黄金町に眞葛焼という陶器の窯元があったそうです。横浜焼ともいわれ 国宝クラスの宝も排出したとか言われています。今も窯元があるのか 作品をどこかで見れるのか等調査をお願いします(ばらさまさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

戦後復刻の動きもあったが、現在では窯元は残っていない。その作品は、横浜駅近くにある「宮川香山 眞葛ミュージアム」で見ることができる

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ライター:河野 哲弥

横浜ならではの焼き物、眞葛焼とは



最初は、その読み方すら分からなかった眞葛焼(まくずやき)。
インターネットなどで調べてみると、明治時代を中心に、海外の名だたる博覧会などで多くの受賞歴を誇った、横浜独自の焼き物であるようだ。さらに、横浜駅から歩いて10分ほどのポートサイド地区の一角に、眞葛焼専門のミュージアムがあることが分かった。
 


「宮川香山 眞葛ミュージアム」の入口
 

同ミュージアムが入る、ポートサイド地区のマンション外観


どうやら、テナントを借りて運営しているようで、家賃もそれなりに発生しそうなのに、営業しているのは、原則土日のみのとなっていた。ますます興味は湧くばかり、早速、取材を申し込んでみることにした。



横浜銘菓を製造する企業による、私設のミュージアム



お話を伺ったのは、同ミュージアムの館長を兼ねるという、株式会社三陽物産代表取締役の山本さん。本業は、横浜の文化を感じさせるお土産用などの菓子を、製造・販売しているそうだ。
 


山本さんと、同社の製品の数々
 

勝海舟にちなんだ、「勝サブレ」など


「もともと、横浜の郷土史が好きだったんです」と話す山本さん。この「勝サブレ」も、勝海舟が整備した神奈川砲台のことを調べていたところ貴重な資料を発見し、砲台の形をイメージして造ったものなのだとか。

この「宮川香山 眞葛ミュージアム」も、「眞葛焼は世界中で有名なのに、肝心の横浜では、ほとんど知られていないのが残念」と、一念発起して設立したのだとか。なお、ミュージアム単体では赤字となってしまうが、三陽物産の社会貢献活動と位置づけることによって、維持・運営をしているらしい。
今回は、眞葛焼をじっくり解説していただけるとのことで、山本さんに同館を案内していただいた。



時代の変遷と共に変化を遂げる、独特の作風



ミュージアムの受付を過ぎると、最初に、2つの陶器が並んでいる姿を見ることができる。
 


これら2つの眞葛焼には、大きな違いがある

 

向かって右、初期の作品には、立体的な造形美がうかがえる
 

左側の後期の作品は、磁器独特の透き通った色彩が施されている


まるで、異なる作陶家が造ったような、それぞれの焼き物。山本さんによると、どちらも初代・宮川香山による作品だという。

なぜ、このような違いが生まれたのだろうか。また、宮川香山とは、どのような人物だったのだろう。引き続き、山本さんにアテンドをお願いしてみよう。
 


初代・宮川香山 (1842<天保13>年~1916<大正5>年)


初代・宮川香山は京都の人、父親は現在の円山公園近くにある真葛ヶ原という場所に窯を持ち、焼き物業を営んでいたそうだ。眞葛焼の名称は、このことにちなむ。

香山はやがて、当時外貨を稼ごうとしていた薩摩藩に招かれるほどの才覚を発揮した。明治維新後の1871(明治4)年には、横浜の豪商、鈴木保兵衛(すずきやすべえ)から資金提供を受け、現在の南区庚台に開窯したそうだ。
 


香山の初期の作品一例、白くて細かなヒビが入る薩摩焼の特徴を持つ


当時、スポンサーであった鈴木保兵衛は香山に対し、薩摩焼や瀬戸物など、既に人気のあった焼き物を造るよう依頼していたようだ。なぜなら、外国人が好んで、買い付けをしていたからである。

しかしその後、鈴木保兵衛は本業が立ちゆかなくなり、支援が続けられなくなってしまう。香山が独自の技法を確立し、自身の作風を作りあげていったのは、その後の話となる。

 


「高浮き彫り」と呼ばれる、香山独自の立体的な表現がはじまった
 

器の一部とは思えない、生き生きとした造作