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かつて江の島に三重塔がそびえ立っていた?

ココがキニナル!

江の島にある児玉神社を取材してください。また明治維新頃まで江の島には三重塔があったそうです。どんな塔だったのかキニナル。(にゃんさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

三重塔は江戸時代の鍼師(はりし)・杉山検校が建立したもの。廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の中で取り壊されたと思われる。

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ライター:松崎 辰彦

かつて江の島にあった三重塔



江の島にかつて三重塔があった──と言っても現代人にはピンとこない。
何しろ江戸時代の話である。

しかし、その実在は数々の資料によって疑う余地のないものになっている。
一つには葛飾北斎の浮世絵「富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)相州江の嶌」で、木々の間から最上階とその下の階が顔を出している。制作年代は1831(天保2)~1834(天保5)年と言われている。
 


葛飾北斎 「富嶽三十六景 相州江の嶌」


(拡大)明らかに三重塔である


また、二代歌川広重・三代歌川豊国の手による「相州江之嶋」にも三重塔は描かれている。
 


木々の中から三重塔が顔を出している


さらに細密にあるのが、江戸幕府の道中奉行所が18世紀末から19世紀初頭にかけて実地の測量や調査をして作成した『五海道其外分間見取延絵図』の中の、江の島を描写した『江島道見取絵図』に、明確に三重塔と判別できるものがある。
 


「江島道見取絵図」(部分)
 

(拡大)明確に三重塔である


このように多くの絵画で描かれている三重塔。江の島の樹林の間から顔を出して、少なからぬ存在感を持った建物だったようにも思われる。あるいは、現在の江の島シーキャンドルのような、江の島のシンボルとして捉えられていたのかもしれない。



姿を消した三重塔



そんな三重塔だが、言うまでもなく現在はもう跡形もない。
これについても、絵画でその歴史を追うことができる。

たとえば、1887(明治20)年に発行された「江之嶋全図」には三重塔が記載されていない。すでにこの時点では三重塔は存在しないことがわかる。
 


楊堂玉英(ようどう ぎょくえい)「江之嶋全図」


また、日本近代洋画の父と言われる高橋由一(1828〈文政11〉~1894〈明治27〉年)によって描かれた「江の島図」にも、三重塔らしきものは明確にはわからない。
 


高橋由一「江の島図」 1876(明治9)~1877(明治10)年 
神奈川県立近代美術館蔵


この絵は1876(明治9)年から1877(明治10)年にかけて描かれた作品だが、そのもとになっているのは高橋氏が1872(明治5)年の関西旅行の際に、江の島に立ち寄った時に行ったスケッチであるという。

もしかしたら、すでにこの時点で、三重塔は撤去されていたのかもしれない。



三重塔を建立した杉山検校



このように歴史の流れの中で消滅した三重塔を建立した人物が、杉山検校(けんぎょう)という本編の主人公である。江戸時代の有名な鍼師(はりし)だ。
 


杉山検校 1610(慶長15)~1694(元禄6)年


杉山検校は、鍼を管に通して刺す技術、管鍼法(かんしんほう)を開発。鍼術を視覚障がい者にも習得しやすいものにしたと言われている。

藤沢市鍼灸・マッサージ師会会長で、「くらつか治療院」院長の倉塚充夫氏は「私たちの仕事の基礎を作ってくれたのが杉山検校です」と明言する。
 


「くらつか治療院」の倉塚充夫氏。藤沢市鍼灸・マッサージ師会会長


日本の鍼師で杉山検校を知らない人はいないでしょう、と語る。

彼が管鍼のアイデアを得たのは、江の島での断食修行を終えた直後のことだったと伝えられている。現在は日本の鍼術のスタンダードなやり方になっている管鍼だが、その開発は一人の人物の血の滲むような努力があった。その歴史を探ってみたい。