かつて江の島に三重塔がそびえ立っていた?
ココがキニナル!
江の島にある児玉神社を取材してください。また明治維新頃まで江の島には三重塔があったそうです。どんな塔だったのかキニナル。(にゃんさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
三重塔は江戸時代の鍼師(はりし)・杉山検校が建立したもの。廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の中で取り壊されたと思われる。
ライター:松崎 辰彦
管鍼を開発し技術を飛躍させる
杉山検校こと杉山和一(すぎやま わいち)は1610(慶長15)年、現在の三重県津市生まれ。
10歳のときに天然痘で失明し、長じて自立の道を捜して鍼師の山瀬琢一(たくいち)に入門するが、物覚えが悪くて修練が進まず、破門を言い渡される。
しかし和一は希望を捨てず、鍼術の習得を祈願して江の島にわたり、断食修行を行った。修行満願の後、帰り道で「福石」と呼ばれる大きな石につまずいて、体に松葉が刺さり、その周囲を丸まった枯葉が覆っていたことで管鍼のアイデアを得たとされている。
江の島に今もある福石。杉山検校がつまずいて、管鍼の着想を得たと言われる
松葉が枯葉にくるまっていた、というが・・・?
ツボを管で押さえることで、鍼も扱いやすく、鍼術の習得が容易になった。
1670(寛文10)年、61歳で盲人の官位として最高位の「検校」を与えられる。
彼は鍼術を持って5代将軍徳川綱吉を治療し、その後も長く仕えたことで、3000坪の土地を与えられた。杉山検校はその報恩として、江の島に三重塔を建設した。
廃仏毀釈で三重塔は姿を消した
そうした人物ゆかりの三重塔が、なぜ現代まで残らなかったのだろう。そこには、仏教関係の建物や経典、仏像などを破壊した「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」という日本独自の歴史があった。
政府は1868(慶応4)年に通称「神仏分離令」を発した。それまで日本では、仏教と神道が明確に区分されず、同じ場所で混ざり合って信仰されている場合が多かったが、明治政府はこの二つを明確に分離するため、寺院と神社を分けるよう通達したのである。
江島神社
このことは仏教の排斥につながり、日本各地で、仏教関連の多くの貴重な財物が破壊され、打ち捨てられた。江の島の三重塔も例外ではなく、歴史の荒波の中で、その姿を消したのである。
三重塔はどこにあったか
それでは、三重塔は江の島のどこにあったのだろう。
三重塔に関する資料は廃仏毀釈で消滅し、江島神社でもほとんど何も残っていないという。
江島神社の権禰宜(ごんねぎ)・狩野見英聰(かのみひであき)氏に伺ったところ、一番考えられるのは現在の「江の島市民の家」ではないかとのことであった。
「江の島市民の家」。ここに三重塔があった?
何しろ江戸時代と現在では道が違うので、わかりにくく、確定できないということで、歳月の重みを感じさせる。
杉山検校の墓所は江の島の一角、「江の島市民の家」の近くにひっそりと存在している。
杉山検校の墓所
人々の喧騒から離れた場所で、安らかな境地を楽しんでいるかのように思える。
一つでもいいから目がほしい──江島杉山神社の誕生
杉山検校は1685(貞享2)年、5代将軍徳川綱吉の病気を鍼で回復させ、その功績により侍医となった。そして1692(元禄5)年、82歳のときに盲人の全国組織である「当道座」の最高位である関東総検校になった。
あるとき綱吉が
「これまで余に尽くしてくれたことに褒美を取らせよう。ほしいものを何なりと申せ」と言ったとき、杉山検校が
「一つでいいから、目がほしゅうございます」
と答え、それを聞いた綱吉が「本所一つ目」の土地を与えた話が伝わっている。本所一つ目は現在の墨田区千歳で、そこには江島杉山神社があり、祭神として杉山検校が祀られている。
江島杉山神社
碑文が点字で書かれている
綱吉から土地を贈られたのが1693(元禄6)年で、江の島に三重塔を建立したのも同じ年である。
それ以前の1682(天和2)年、杉山検校は鍼治講習所を開き、視覚障がい者の教育を開始した。後代における盲学校ならび鍼灸・按摩師養成所のさきがけとなる。
杉山検校が世を去ったのは1694(元禄7)年、満84歳。かつて江の島にあったとされる三重塔。その歴史は、一人の盲目の偉人の生涯に深くかかわるものであった。
取材を終えて
一般には杉山検校の名前はあまり知られていない。しかし今回の取材で知ったこの人物の生涯は、調べてみるほど印象に強く残るものだった。
障がい者福祉の発達していなかったその昔、光を奪われた人々がどれほど苦しい人生を余儀なくされたか、想像に余りある。そうした中で、一人の過酷な宿命を背負った才人が、その着想により視覚障がい者の自立の道を整えたのである。
残念ながら三重塔はもう存在しないが、江の島の歴史は思いがけなく深かった。観光地江の島ももちろん楽しいが、信仰の地としての江の島にも、さらに注目したい。
―終わり―
参考文献
『東海道名所図会 復刻版 下巻』 羽衣出版有限会社
『江島道見取絵図』 東京美術
『「江の島浮世絵展」図録』藤沢市教育委員会編集
『杉山和一-目の見えない人たちを救った偉人-』杉山検校遺徳顕彰会
他
※神奈川県立近代美術館 葉山では「美は甦る 検証・二枚の西周像――高橋由一から松本竣介まで」が3月24日まで開催され、その中で高橋由一「江の島図」も展示されている。
神奈川県立近代美術館
http://www.moma.pref.kanagawa.jp
江島神社
http://www.enoshimajinja.or.jp/
くらつか治療院
〒251-0052 藤沢市藤沢484 箕田藤沢ビル4F
TEL・FAX 0466-50-2289
江島杉山神社
〒130-0025 東京都墨田区千歳1丁目8-2
にゃんさん
2013年03月16日 14時07分
いつも取材ありがとうございます。鶴岡八幡宮の大塔もこの頃失われたそうですね。
とうさんさん
2013年03月13日 17時24分
色々なサイトの解説を総合すると、査読されていないから全部はあてにならないけど、【明治政府が廃仏毀釈を直接に主導した訳ではないのかもしれないが、明治政府は「廃仏毀釈は国学の高揚などを背景に自然発生的に広まったもの」を少なくとも巧みに利用したって】のが私の今の解釈ですが間違いですかね。
ushinさん
2013年03月13日 17時04分
Matrosenさん「明治政府が廃仏毀釈を主導したかのように理解されている方がおられるようですが」これ、私のこと?ざっくばらんだけど言ったのは、政府は皇統を統治の威光にってことで、例えば本当かどうかわからない古墳の埋葬者割り当てたり、現在の研究では存在がほぼ絶望的な神代の天皇デッチ上げたりやった事は否定しないよね?明治政府がやったのは神国日本というアイデンティティを打ち立てたのであって、そういう風潮に煽られて(裏で誰かが暗躍したとかどうかは知らないけど)廃仏毀釈運動を招いた・・・で間違いではないと思うけど。で、真宗(特に本願寺派、大谷派)は天皇家とのつながりもあり、大教院に手を回したり、そこはうまいことやりましたw