日本初の公衆トイレが横浜にあったって本当?
ココがキニナル!
日本で最初の公衆トイレは横浜に作られたという話を聞いたことがあります。当時どんな様子だったのか、その場所に今も何か残されているのか気になります(イルカさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
設置は1871(明治4)年。当初、利用者は少なかったが徐々に認知された。現在はかつての設置場所を特定することは困難。
ライター:細野 誠治
まずは歴史をひも解いてみよう
日々の暮らしのなかで欠かせないライフライン。中でも水周り、し尿や汚水を効率よく処理するシステムは非常に大切なもの。公共の施設や外出先でもそれは同じこと。成熟した都市にあるべき「公衆トイレ」。それが日本で初めてお目見えしたのが、横浜だという話。本当なら、やはりちょっとだけ鼻が高い。
横浜のそんな初めてには、どんなストーリーがあったのか?
街で見かける公衆トイレ、日本初は横浜らしい
文献を調べるべく、まず向かったのは都筑区の「横浜市歴史博物館」。しかしここでの収穫はなし。次に向かった中区の「横浜市開港記念会館」、「横浜都市発展記念館」でも文献はなかった・・・。
難航する資料探し。そして最後に伺った「横浜開港資料館」でようやく手がかりを得た。
元はイギリスの総領事館だった「横浜開港資料館」
敷地に入ると資料館の顔・たまくすの木がお出迎え
資料館の地下にある閲覧室で得た手がかりは2冊の本。
「横浜市史稿・風俗編」と「横浜の清掃事業120年のあゆみ」に少ないながらも記述があった。
まず最初に、公衆トイレの無かった時代、人々はどうしていたのかというと・・・
店やお宅にトイレ(厠=かわや)を借りるか、人気のない所(薮とか空地とか)で、何というか・・・フリーダムに用を足していたようだ。
そんな時代。公衆トイレができるきっかけは、横浜の外国人居留地(現在の山下町と日本大通りの一部)に住む住民からの苦情だった。通りやその周辺で用を足してしまう姿が見受けられ、「何とかしてほしい」という要望が巻き起こったのだ。
誕生のきっかけは居留区に住む外国人の声。風紀の乱れを指摘された訳だ。
外国人居留地。写真は幕末の頃のもの
(「横浜の清掃事業120年のあゆみ」より)
その声を受けて、1871(明治4)年11月、県は「放尿取締の布告」を出し、違反者には「即決科料銭100文(※)」という罰金を課した。
(※)当時の貨幣状況は円との混在期。江戸時代の平均価値で換算すると100文は現在の価格で「1650円」くらいと思われる。
同時に町会所の費用を使い83ヶ所の「路傍便所」なるものを設置したとある。これが日本で最初! 4斗(1斗は約18リットル)樽大の桶を地面に埋め込み、板囲いをしたものだそう。
この年は全国で廃藩置県が断行され、横浜港から岩倉使節団が旅立った年でもある。横浜の馬車道などにガス灯が設置される前年には、公衆トイレが横浜にあったのだ!
ガス灯が横浜を照らす前年の出来事。当時、街の灯は提灯だったのだろう
このトイレ(当時の呼び方で路傍便所)、町会所前の掲示板に位置を知らせる張り紙が出され布告されていたという。キニナル方もいると思うので、ざっとその位置をリスト化しよう。
横濱港小便所分配箇所(「横浜市史稿・風俗編」より)。かっこ内は設置個数
<クリックで拡大>
以上、83ヶ所が日本で最初に作られたトイレの設置箇所。当時は使用者も少なく、相変わらず今まで通りに用を足してしまう者が多かったそうだ。しかし市はこれを厳しく取り締まり、「羅卒(らそつ:警察官)の仕事は、まるで放尿取締かのようである」と史稿には書かれている。
その後、トイレの容器は桶からビンに変更され、囲いに屋根が付けられるなどの改造がなされた。設置箇所も40数ヶ所に統廃合されたという。多くは橋詰めに設置されたというから、恐らくは、し尿運搬の利便性が考えられたのだろう。
統廃合によって数を減らした路傍便所だが、当時の横浜は湾岸の埋め立てと人口増加のただ中にあった。そのため路傍便所の利用者も増えたのだろう、ビンから溢れてしまう事態に陥ってしまう。