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古都・鎌倉にも空襲被害があったって本当?

ココがキニナル!

太平洋戦争中、古都鎌倉にも空襲があったらしいので取材をお願いします。/鎌倉ゆかりのラングドン・ウォーナーの取材をお願いします。(小鳩さん)

はまれぽ調査結果!

焼夷弾による空襲は一名の証言があるのみだが、艦載機(かんさいき)による機銃掃射(きじゅうそうしゃ)は何回かあった

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ライター:松崎 辰彦

鎌倉にも空襲があった



鎌倉に空襲があった──この事実に首をひねる人も少なくないだろう。円覚寺も建長寺も、鶴岡八幡宮も長谷の大仏も、焼かれることなく現存している鎌倉が、かつて火の海だったとは想像しづらい。
 
しかしながら、焼夷弾による猛火こそなかったが、鎌倉は米軍戦闘機による機銃掃射を受けている。
焼夷弾の猛火と同様、逃げまどう人間を低空から襲う機銃掃射も、人々にとっては恐怖の的であった。

ちなみに太平洋戦争では横浜大空襲でB-29とともに横浜を襲ったP-51ムスタングをはじめ、グラマン、カーチス、コルセアなどの戦闘機が、上空から機銃で一般人を狙い、銃撃したといわれている。
 


P-51ムスタング
 

グラマンF6Fヘルキャット
 

カーチスP-40
 

F4Uコルセア


鎌倉は焼夷弾被害こそ軽微だったが、戦闘機による機銃掃射は何回か受けており、何人かの人的被害を出している。あまり話題になる機会のない鎌倉空襲に注目してみたい。



一般市民が機銃掃射を受けていた



本年2013(平成25)年9月、かまくら春秋社より『一九四五年 鎌倉と米軍機による空襲』という一冊の書籍が発刊された。
 


『一九四五年 鎌倉と米軍機による空襲』


著者は逗子在住の石井喬(いしいたかし)氏。石井氏は1940(昭和15)年、東京に生まれた。

長年高等学校教諭を務めてきたが、2000(平成12)年に定年退職したのち、「横浜の空襲を記録する会」の会員として横浜を中心とした戦災に関する調査研究を進め、歴史家として『鎌倉に異国を歩く』(大月書店)『図説鎌倉歴史散歩』(共著 河出書房新社)『郷土神奈川の歴史』(共著 ぎょうせい)などの著書を刊行している。
 


石井喬氏


石井氏は本書の中で大佛次郎や島木健作、高見順といった鎌倉在住の作家たちの日記を引用し、戦争末期の鎌倉がいかに空襲の脅威にさらされていたかを紹介している。
「鎌倉は焼夷弾の被害は軽微でしたが、記録によると機銃掃射は何度か受けています。ただ日付が不明なものが目立ちます」

その一つとして「腰越や町の中心部で機銃掃射が行われた記録があります」とのこと。腰越のケースでは女性が一人撃たれて亡くなっている。
「インターネットでも鎌倉が爆撃の被害にあったことが記されているようですが、神奈川県警の調べでは横浜などほかの場所と一括して統計上処理されており、本当に鎌倉市に落ちたかどうかは不明です。たとえば1945(昭和20)年1月9日、3機のB-29が鎌倉郡深沢村などに被害を与えたという記録がありますが、明確な位置はわかりません」

ほかにも大佛次郎の8月8日の日記に「過日北鎌倉で電車が機銃掃射せられし。」との記述があるが、はっきりした日時はわからない。

また鎌倉で編集された『鎌倉・太平洋戦争の痕跡』という記録集には当時、鎌倉に住んでいた人々の証言が多数掲載され、その中には機銃掃射や砲弾の着弾を目撃した経験談もいくつか含まれている。
 


『鎌倉・太平洋戦争の痕跡』


戦争末期、鎌倉住民は生命の危機の中で暮らしていたのである。

吉田守男『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』(後述)にはアメリカ側に鎌倉が一度だけ爆撃を受けた記録が残っているとして「一九四五(昭和二〇)年二月一二日、B29一機が高性能爆弾三トンを鎌倉市街地に投下したという。このB29一機も、一月一六日の京都の場合と同じ正体不明機であった〔Attack Data〕」という記述がなされている。この空襲は、日本側には被害が確認されていないとのことである。

一方、焼夷弾による被害は、現在のところ一人の証言があるだけである。
「鎌倉で編集された『鎌倉・太平洋戦争の痕跡』という記録集に、金井茂さんという方の証言があります。それによると1945(昭和20)年5月23日夜に、鎌倉市の十二所(じゅうにそ)に焼夷弾が落ちたとあります。発火せずに不発弾として田圃(たんぼ)に落ちたので、一面油まみれになってその処理に追われたと記されています」
 


十二所を流れる滑川


これが判明している鎌倉における焼夷弾被害のすべてである。鎌倉は焼夷弾の猛火を経験することはなかった。