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みんなのキニナル

    毎日横浜公園でおもちゃを用意してくれたり、子供と遊んでくれるおじさんがいるのですが、キニナリます。子供に危害が加える人ではないですし、非常に助かっているので感謝していますが、素性を知りたいです。

    中居屋さん

    Instagramで「元町ラバーズ」と言う名前で横浜元町を紹介しているのをよく見かけます。いろんなイベントやお店を紹介してるのですが一度はまれぽさんも取材拒否してもらいたいなぁと思いました。双方向コラ...

    bachplayerさん

    先日、桜木町から新港地区へのロープウェイが計画されているという報道が出ましたね。その報道の中で、以前に報じられた横浜駅東口から山下公園へのロープウェイも協議中であるとの話がありましたが、こちらの進捗状...

    ねこまんさん

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みんなのコメント

横浜人にインタビュー
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横浜のココがキニナル!

横浜公園には昔、横浜野外音楽堂なるものがあったそうです。今後横浜に野外音楽堂のようなものは作らないのでしょうか。野外で音楽を楽しめるスペースが横浜にもあればいいなと思います。(Ichiさんのキニナル)

はまれぽ調査結果

野外音楽堂をつくる計画はないが、野外音楽堂で行われていたイベントは、横浜スタジアムで引き継げるよう設計された

ライター:ほしば あずみ (2014年04月30日)

ハマの野音とは?

野外音楽堂といえば、東京の日比谷公園にある「日比谷野外大音楽堂」が有名だが、同じようなものが横浜公園にもあったのだろうか。
 
横浜市の公園を管轄する環境整備局に問い合わせてみると、野外音楽堂があったのは1977(昭和52)年まで。現在の横浜スタジアム建設にともない撤去されたとのこと。野外音楽堂のようなものを作る計画は現在ないという。


1965~1966(昭和40~41)年に発行されたパンフレット『市の施設のあんない』


野外音楽堂が紹介されている


『市の施設のあんない』に基づいてそのあらましを追うと、野外音楽堂は1929(昭和4)年に関東大震災の復興事業として建設されたもの。終戦後は進駐軍の接収を受け、1952(昭和27)年に接収解除されてからは改修工事を経て利用されていたらしい。

写真の「プロムナードコンサート」は市の主催で毎年7月から9月にかけて開催されていた。アメリカ軍や神奈川県警、消防局、学校や職場の音楽団体の演奏が20~30公演行われ、入場は無料だった。


野外音楽堂の全景(横浜市史資料室所蔵広報課写真資料)


建物の構造は鉄骨コンクリート一部2階建て。ステージ面積は495㎡だった。日比谷野外大音楽堂のステージ面積は214㎡、みなとみらいホール(大ホール)は290㎡なので、かなり広々とした舞台だったことがうかがえる。

収容人員は2600(改修前は3400)人、階段状の客席で600席、立見2000席となっており、観客側の立場だと現在のコンサート事情にはやや見合わない気がする。
ちなみに、日比谷野外音楽堂は2664席、立見450席、ほか車椅子スペースとなっている。
 


音楽堂でのコンサートの様子(横浜市史資料室所蔵広報課写真資料)


プロのコンサートもたびたび行われ、取り壊し前には「ヨコハマ野音最後の日」と銘うって、カルメン・マキ&OZ、柳ジョージ&レイニーウッドらがスペシャルライブを行った記録が残っている。



横浜公園の歴史をふりかえる

横浜公園はこれまでにも何度か紹介しているように、(「かつて高島町に遊郭があったってホント?」、「JR桜木町駅周辺に存在した幻の島「姥島」って!?」)かつて港崎(みよざき、のちに、こうざき)遊郭と呼ばれた「遊郭」があった場所。


横浜公園内でその歴史を伝えるモニュメント

 
横浜開港にともない1859(安政6)年、幕府の主導で建設された遊郭は、江戸の吉原遊郭に倣(なら)った構造で、長崎の丸山遊郭に倣った外国人接客をしていたといわれている。外国人は羅紗緬(らしゃめん)と呼ばれた外国人専用の公娼しか選べなかった。


横浜港案内図絵の港崎遊郭
(五雲亭貞秀(ごうんていさだひで)1860<万延元>年/横浜中央市中央図書館所蔵)

 
港崎の中でも際立って優美だった「岩亀楼」。有吉佐和子の小説および戯曲『ふるあめりかに袖はぬらさじ(亀遊の死)』は、港崎遊郭の名主であった岩槻屋(がんきや)佐吉が営む「岩亀楼」の羅紗緬、喜遊(亀遊)を描いている。

華やかだった時代の「岩亀楼」は、昼間は見物料をとって老若男女が訪れる観光地であり、浮世絵にも幾度となく描かれている。
 


「横浜岩亀見込之図」(ニ代広重1860<万延元>年/横浜中央市中央図書館所蔵)

 
だが、1867(慶応2)年、港崎遊郭の南側にあった豚肉屋鉄五郎宅から発生した火災、いわゆる「豚屋火事」が大火となって遊郭を焼き尽くした。この火事によって関内の外国人居留区は4分の1を、日本人街は3分の1を焼失。堀で囲まれ出入り口は橋がかかった1ヶ所しかなかった同地では、逃げ遅れた遊女らが400人以上命を落としたという。
 


港崎町遊廓の花見の様子(五雲亭貞秀1860<万延元>年/横浜中央市中央図書館所蔵)

 
開港からわずか7年で起きた悲劇は、開港場における防災面の都市整備を見直す教訓となった。遊郭はその後、関外の吉田新田、高島町、真金町ほかへ転々とする。港崎遊郭があった場所は火除け地として公園とし、公園から海まで防火帯となる幅広の道路を設けた。これが横浜公園と日本大通の誕生となる。

 
公園に野外音楽堂が登場するまでの経緯は?・・・キニナル続きは次ページ≫
 

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