かつて花街があった開発前の「上大岡」の歴史について教えて!
ココがキニナル!
開業当初の京急「上大岡駅」は簡素で無人駅、利用者は20人足らず。開発前の上大岡駅と周辺の様子は?(抹茶さん/ねこぼくさん)/地下鉄上大岡の銀色の亀ってなくなってしまう?由来は?(はまれぽ初心者さん)
はまれぽ調査結果!
1930年開業当初の上大岡駅周辺は一面田んぼ。その後花街があった時代もあるが名残はない。銀の亀は地下鉄開業記念の壁画レリーフでなくならない
ライター:ほしば あずみ
昔の上大岡駅周辺とは?
横浜の副都心とも呼ばれる上大岡。京浜急行の前身である湘南電気鉄道が開通して上大岡駅が開業したのは1930(昭和5)年。湘南電気鉄道の記録によると、確かに信号所があるだけの無人駅で駅舎もなくホームは一面のみ、利用者も1日20人程度。辺りは一面に水田が広がり駅裏は雑木林で人家もまばらだったのが開業当初の上大岡駅周辺だったという。
横浜市の統計によると同年の横浜駅の1日の利用者数は約1万6400人あまりである。
寒村ではあったが、後年湘南電鉄と京浜電鉄との連絡駅となる日ノ出町駅と、車庫等がある金沢文庫駅のほぼ中間地点であり、鎌倉街道(旧道)と湘南電鉄が交差する小高い丘は駅を置くのに適当な立地だった。
戦時中の上大岡駅前で撮られた出征前の集合写真(提供:渡辺渥美)
1947(昭和22)年ごろの上大岡駅周辺にもまだ田んぼが広がっている
(国土地理院地図・空中写真閲覧サービスに一部加筆)
1955(昭和30)年から上大岡に住み、歯科医を開業している渡辺渥美さんは鉄道の写真撮影が趣味で、長年撮りためた膨大な量の写真は今や歴史を今日に伝える貴重なものとなっている。
郷土資料や鉄道史の書籍などに写真提供することもある渡辺渥美さん
1933(昭和8)年生まれの渡辺さんの家は、市電の麦田車庫の目の前にあった。市電と共に育つうちに鉄道ファンになっていったそうだ。
診察室には撮影した写真が飾られている
子どもが喜びそうなNゲージのディスプレーも
「上大岡の駅前は、かつては田畑が広がって閑散としていたそうですが」と尋ねると、渡辺さんは一枚の写真を見せてくれた。
本当に・・・ここはどこでしょう?
「昔は弘明寺のトンネルを抜けると、中里のあたりに一部人家が見えるくらいであとは一面畑。こんな光景が広がっていたんだよ」と渡辺さん。上大岡駅のプラットホームからは富士山も見えたという。
1959(昭和34)年、雪の日の上大岡駅構内(提供:渡辺渥美)
かつては、改札を通るとプラットフォームに向かうには踏切を渡らなければならなかった。ホームへ地下を通っていけるようになったのは、駅舎を建て直し1963(昭和38)年に駅ビルがオープンした時からだ。
1961(昭和36)年、ホーム側から踏切越しに見た駅舎(提供:渡辺渥美)
改札の向こう側に不動産屋の看板が見える。このころから分譲地販売が盛んになりはじめ、不動産屋が軒を連ねていた。1958(昭和33)年、森が丘住宅地(磯子区)の宅地分譲を皮切りに、京急による上大岡駅周辺は小規模な宅地開発や、京浜工業地帯の大企業の社宅建設が次々進められた時期である。
京急のチラシにあった森が丘住宅地開発の様子(提供:渡辺渥美)
外観。左側の人物が立っているところは荷物受付所(提供:渡辺渥美)
田んぼが広がっていたことからもわかるように、この地はもともと湿地帯だった。昭和30年代までは大雨が降るとたびたび大岡川が氾濫し、道路が冠水して川のようになったという。渡辺さんの家も畳が浮き上がるような水害に遭ったそうだ。
「1961(昭和36)年6月の氾濫が一番ひどかった。あまりの被害に家を建て直したんだ。水があがってこないように床を高くした。でも1981(昭和56)年に分水路ができてから建て直した後に氾濫は起きていないんだよ」と渡辺さん。