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横浜出身の戦前の大スター! 大歌手「渡辺はま子」ってどんな人?【前編】

ココがキニナル!

横浜出身の大歌手、渡辺はま子さんを知りたい。20世紀を代表する歌手であり、戦後に多くの兵隊さんをフィリピンの収容所から解放し、横浜港にも出迎えに行ったそう。(katsuya30jpさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

渡辺はま子は『支那の夜』『蘇州夜曲』などのヒット曲を持つ、戦前から戦後にかけて活躍した歌手。フィリピン収容所から囚人の解放運動に尽力した。

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ライター:松崎 辰彦

大歌手・渡辺はま子

“モンテンルパ”という言葉を耳にしてある種の感慨を抱くのは、もうかなりの年配の方々であろうか。もとより多くの日本人がこのフィリピンの首都マニラに隣接する市の名を知ったのは『ああモンテンルパの夜は更けて』という渡辺はま子の歌を通してであったろうことは、疑いない。
 


渡辺はま子(1910~1999)
(画像提供:田沼清子)


かつてモンテンルパにあるニュー・ビリビッド刑務所には日本人が多数収容され、そのうちの半数近くが死刑判決を受けていた。太平洋戦争中、多くの日本兵がフィリピン国民に多大な損害を与えたといわれ、戦後ただ被害者の証言だけで有罪になった囚人も多く、彼らは戦争犯罪者──“戦犯”として異国の牢獄につながれたのである。

彼らと当時の人気歌手であった渡辺はま子との繋がりは、何度もドラマ化されるなどしてよく知られている。

渡辺はま子は1999(平成11)年に亡くなったが、戦前から戦後にかけて横浜を代表する歌手として多くのファンを魅了した。そんな彼女の人生と、モンテンルパの囚人解放を巡る経緯を、2回に分けてとり上げたい。



渡辺はま子誕生

渡辺はま子は1910(明治43)年10月27日、横浜市平沼に、女子師範学校の英語教師であった父・渡辺近蔵(ちかぞう)、母・マリの次女として生まれた。兄と姉が一人ずつおり、両親と兄弟の愛情を受けて育った。
 


捜真(そうしん)女学校時代。(左上から)はま子、兄、父、姉。手前は父の実母
(『あゝ忘られぬ胡弓の音』より)
 


若いころのはま子の母
(『あゝ忘られぬ胡弓の音』より)


川崎市の御幸尋常(みゆきじんじょう)小学校に入学したが、3年生のときに父の勤務する横浜の女子師範学校の付属小学校に転校する。小学校時代に担任の先生に楽譜の読み書きを教わり、興味を持ったことが音楽を志した最初のきっかけだったといわれている。
一方で、はま子は行動的でおてんばな女の子だったが、このバイタリティは彼女の生涯を貫いた。

1923(大正12)年、母も姉も通った横浜市中丸にある捜真女学校に入学。日々賛美歌を歌うなかで、彼女は美しい調べにいよいよ魅せられていく。 音楽教師からも目を掛けられ、歌の才能を伸ばしていった。
 


捜真女学校の卒業を数日後にひかえて
(『あゝ忘られぬ胡弓の音』より)


そんなはま子の様子を見て、父は音楽学校への進学を勧める。そしてはま子は1930(昭和5)年、開校2年目の武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)に入学した。

当時は蓄音機が家庭に普及し、レコードが世に広まりつつある時代だった。レコード会社が中心となって流行歌が作り出されるシステムが生まれ、そうした業界の仕組みに、はま子もやがて組み込まれ、世に出ることになる。
 


はま子と蓄音機。川崎の自宅にて
(『あゝ忘られぬ胡弓の音』より)


のちに流行歌手として名を成すはま子だったが、音大生時代の夢は歌曲やオペラを歌うクラシック歌手として認められることであり、当時の世間に流行歌というものがあることすら知らない無垢なお嬢さまであった。
 


音楽学校卒業時に開催された「新人紹介音楽会」で歌う
(『あゝ忘られぬ胡弓の音』より)




プロの歌手になる

1933(昭和8)年、武蔵野音楽学校を優秀な成績で卒業した彼女は、日本ビクターにスカウトされ、プロ歌手としての道を歩みだす。同時に母校武蔵野音楽学校の講師として採用され、教壇に立つことになった。
 


ビクター大会のステージで
(『あゝ忘られぬ胡弓の音』より)

 

音楽学校の職員たちと。講師として再通学し始めたころ
(『あゝ忘られぬ胡弓の音』より)


この当時は芝居をさせられたり、興行に同行したりするなど、新人としてさまざまな経験を積むはま子であった。
 


芝居の格好で
(『あゝ忘られぬ胡弓の音』より)


レコードの吹き込みも経験し、舞台に立つことも多くなったので、母校の講師の職は早々に辞した。しかし同じ時期に現在の横浜学園、当時の横浜高等女学校から講師の要望が寄せられ、勤務することになった。



生徒の憧れの的だったはま子

「始業時間を何時間か過ぎて、汐汲坂(しおくみざか)をはま子先生が歩いてこられるでしょう? すると生徒たちは授業中でも窓辺に駆け寄り、坂を登ってこられる先生に手を振るんです。『はま子先生!』って」
 


はま子が勤務していた当時の横浜高等女学校
(『昭和九年三月 第三十三回 卒業記念帖』〈横浜高等女学校〉より)


そう当時の思い出を語るのは、現在磯子区にある横浜学園4代目理事長・故田沼智明氏の夫人、田沼清子(せいこ)さん。現在の田沼光明理事長の母親である清子さんは1927(昭和2)年に田沼家の跡取り娘として生まれ、幼いころは学校内を散策して遊んだ。
 


田沼清子さん


そんな彼女は、幼いころに渡辺はま子と出会い、彼女の晩年に至るまで交流を持つことになる。
「“はま子先生は今日、どんなお洋服かしら?”というのが生徒たちの関心事だったんです。はま子先生は普段からほかの先生と違いましたから」
教師としてのはま子は外見が華やかで、化粧も多少は濃かったが、芸能人ということで大目に見られたようである。卒業アルバムの中の彼女も、ほかの女教師とは違う雰囲気を漂わせている。
 


下段右がはま子。生徒の人気者だった
(『昭和九年三月 第三十三回 卒業記念帖』〈横浜高等女学校〉より)


「はま子先生は生徒たちの憧れの的でした。放課後になると講堂に入り、ピアノを同僚の内藤先生に弾いてもらいながら歌を歌っていました。どんな歌かは私はまだ小さかったのでほとんどわかりませんでしたが、『荒城の月』などは本当に素晴しい歌声でした」

みずからの練習のために一心に歌うはま子だったが、そんな彼女の歌声を聞きつけ、講堂に生徒たちや先生たちが集まり、はま子を取り囲んでしまうのが常だった。
 


現在の汐汲坂。横浜高等女学校のあとには幼稚園ができた


「当時の横浜高女の講堂は横浜一といわれ、輸入品のシャンデリアもありました」
音楽教師ではあったが、はま子は自分でピアノを弾くことはあまりせず、自分の授業でも内藤先生にピアノを弾かせていたという。
 


上段左側の女性が内藤先生。その右の男性は教師時代の作家・中島敦(『山月記』の作者)
(『昭和九年三月 第三十三回 卒業記念帖』〈横浜高等女学校〉より)


清子さんはまた、はま子のリサイタルで、はま子に花束を渡す役を何回かやらされた。あるとき、はま子の楽屋を覗く機会があった。
「パレットのようなものを使って、顔を塗っていました。『これは触るとおててが汚れるから、触らないでね』といわれました」

普段のはま子はスター気取りなど微塵もない、何かを聞かれたらニコニコとして答える明るい先生だったそうである。
 


横浜高等女学校の教員となって間もないころ、同僚の先生(右)と
(『あゝ忘られぬ胡弓の音』より)


こんなはま子の教員生活も、彼女が映画撮影のために学校を休んだこと(校長の許可を得ていた)が新聞の記事となり、父兄の非難を浴びたことから終わりを告げる。歌手業の忙しくなったはま子にしても、潮時であった。
こうして渡辺はま子は純粋な流行歌の歌手として、歩み始めるのである。