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横浜出身の戦前の大スター! 大歌手「渡辺はま子」ってどんな人?【前編】

ココがキニナル!

横浜出身の大歌手、渡辺はま子さんを知りたい。20世紀を代表する歌手であり、戦後に多くの兵隊さんをフィリピンの収容所から解放し、横浜港にも出迎えに行ったそう。(katsuya30jpさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

渡辺はま子は『支那の夜』『蘇州夜曲』などのヒット曲を持つ、戦前から戦後にかけて活躍した歌手。フィリピン収容所から囚人の解放運動に尽力した。

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ライター:松崎 辰彦

「支那の夜」でスターの仲間に

はま子は1936(昭和11)年に『忘れちゃいやヨ』を歌い、大きなヒットを得た。しかしこの歌は官能的な歌詞内容で、当時の官憲を刺激してしまう。歌うことを禁じられ、レコードも発売禁止になったが、はま子にしてみれば会社から命じられて歌っただけであり、彼女自身もこのような曲を歌うことは本意ではなかった。

さらに会社と何らかのトラブルがあったようで、1936(昭和11)年にビクターを退社している。翌年1937(昭和12)年、コロンビアに入社した。

この年の7月、蘆溝橋事件を発端とする日中戦争が勃発する。時勢に引きずられるように、はま子が吹き込む歌も『夢見る戦線』『明けゆく北支那』『愛国行進曲』『いざ祝え』『戦捷行進曲』と戦時色を強めていく。
 


蘆溝橋(フリー画像より)


そして1938(昭和13)年の『愛国の花』は移籍後初のヒットとなった。
この時期から、はま子は海軍病院などへの慰問を積極的に行うようになる。新聞社主催の皇軍慰問芸術団に加わり、中国にも渡った。
 


皇軍慰問コロンビア芸術団
(『あゝ忘られぬ胡弓の音』より)

 

旭川の陸軍病院を慰問に訪れて
(『あゝ忘られぬ胡弓の音』より)

 

海軍病院の講堂を埋めつくした傷病兵の前で
(『あゝ忘られぬ胡弓の音』より)


そうした中、彼女は『支那(しな)の夜』の吹き込みを行う。当時、中国は紛れもなく戦場であったが、そうした荒々しい暴風の吹いていない、静かでロマンチックな中国を歌詞の中で描き出したのである。そこにははま子とディレクター、作詩家作曲家の周到な計算があったといわれている。

当初は大衆から顧(かえり)みられなかったこの歌も、半年を過ぎるころから売れ始め、やがて大ヒットとなり、はま子はスターとして認知された。
『支那の夜』を題材として映画版『支那の夜』が作られたが、その中で歌われた『蘇州夜曲(そしゅうやきょく)』も、やがてはま子の代表的な一曲となった。
 


『支那の夜』が大ヒットし、歌に芝居に大忙し
(『あゝ忘られぬ胡弓の音』より)


『支那の夜』と『蘇州夜曲』の2曲によって、はま子は“チャイナ・メロディの女王”と呼ばれるようになった。
 


“チャイナ・メロディの女王”と呼ばれたはま子
(『あゝ忘られぬ胡弓の音』より)




中国で慰問活動を行う

1944(昭和19)年6月、はま子は陸軍省報道部より呼び出しを受けた。中国戦線への従軍命令だった。6月14日に東京駅を出発し、11月17日に横浜駅に帰り着くまで、彼女は“従軍記者”という身分を与えられ、各地で慰問活動を行った。この長い旅は、はま子の人生の節目となったともいわれている。
 


陸軍報道部から従軍命令を受け、佐官待遇章を身につける
(『あゝ忘られぬ胡弓の音』より)

 

野戦病院の病室から病室へと歌い歩く
(『あゝ忘られぬ胡弓の音』より)

 

最新鋭戦闘機三式「飛燕(ひえん)」を背に
(『あゝ忘られぬ胡弓の音』より)

 

浜松航空隊を慰問して
(『あゝ忘られぬ胡弓の音』より)

 

ミス・コロンビア(前列中央)と一緒に。戦争が終わるまで、
国内外の慰問で休む間もなかった(『あゝ忘られぬ胡弓の音』より)

 

海南島の駐屯部隊を訪問したとき、兵隊と
(『あゝ忘られぬ胡弓の音』より)


翌年1945(昭和20)年7月、彼女は再び中国に向かう。家族の制止を振り切っての旅だった。およそ1ヶ月前には横浜大空襲が数千人の命を奪っており、どこにも安全な場所はなかった。
そうした中で彼女は北京に向かい、到着後はさまざまな場所を慰問し、歌っている。
こうして彼女は8月15日の終戦を天津で迎えた。

12月31日、彼女は天津の日本人収容所にみずから入った。日本人同胞を慰問するためであった。それから5ヶ月間、再び慰問生活を送った。
 


海南島の仮設舞台で
(『あゝ忘られぬ胡弓の音』より)




帰国、そしてモンテンルパとの関わり

1946(昭和21)年5月4日、はま子は佐世保港に帰り着いた。状況は以前と変わっており、彼女は米軍キャンプの慰問をさせられた。
戦後間もなく、横浜市千代崎町に「パイン・クレスト」という花屋を開業するが、1年半で閉店した。はま子は商売の難しさを知らず、経営も不得意だったようである。
 


「パイン・クレスト」開店時に夫と
(『あゝ忘られぬ胡弓の音』より)


そんな彼女は無料奉仕で旧軍人の慰問を開始する。やがて戦犯が収容されている巣鴨プリズンにも足を運んだ。巣鴨プリズンが閉所になる寸前まで、彼女の慰問は続けられた。

──そして彼女は、人生最大のエピソードともいえるモンテンルパの囚人との出会いを持つのである。



“私も戦犯だ”──歌の力で生き抜いたはま子

「一言でいうと、すごい人だったよ。男性的な感じがした。この人ほど国民栄誉賞にふさわしい人はいないと思ったね」
 


1973(昭和48)年に紫綬褒章、1981(昭和56)年に勲四等宝冠章を受賞しているはま子。
赤坂御苑で昭和天皇と(『あゝ忘られぬ胡弓の音』より)


渡辺はま子について、そう回想するのは、はまれぽに何度もご登場いただいている本牧・美奈登鮨の経営者、鶴田理一郎さん。彼は「美空ひばりさんを愛する横浜市民の会」会長だが、生前の渡辺はま子とも交流を持ち、親しく彼女の家を訪問する間柄だったという。
 


鶴田理一郎さん。はま子と親しかった


「私がまだ駆け出しのころ、私が修業している店に来てくれました。後に私がひばりさん関係で芸能イベントにたずさわると、はま子さんとも再会し、『ああ、あのときの寿司屋さん』といった調子で思い出してくれました」

鶴田さんがひばりと親しい間柄であることを知っていたはま子は、“まだひばりさんとつきあってるの?”などといってからかったという。
「あの人は音大を出ていて、譜面を見せればすぐ歌えるんです。英語もできました」

はま子は鶴田さんに“こうしちゃいられないのよ”とよくいっていたという。
「戦争で家族を失った人の慰問に行きたいんだといつもいっていました。それで私も、運転手として彼女を地方に運んだりしました」

はま子は鶴田さんに“人はいかに生きるべきか”といった哲学的なことをよく話したという。
「『親孝行しなさい』とか、『今は虫けらみたいでも、脱皮すれば蝶になれるよ。我慢だよ』などという話をよくしていました」
 


初めて渡米したとき、祖父母のお墓参りを果たした
(『あゝ忘られぬ胡弓の音』より)


はま子には、自分も歌で戦争に加担した人間であるという意識があったようである。
「『私も戦犯だ』とよくいっていました。『軍に協力した一人なんだ』と。“愛国行進曲”みたいな歌を歌って軍人を鼓舞した責任を感じ、自分から収容所に入ったということのようです」
 


漢口の駐屯部隊を訪ねて
(『あゝ忘られぬ胡弓の音』より)


はま子の歌声は、行く先々で人々を魅了した。収容所でも彼女は歌い続け、挙げ句は看守の中にも彼女のファンができたという。
「『歌の力はすごいよ』といっていました。『私がいったことを後世に伝えてほしい』ともいわれました」

歌の力で戦前から戦後にかけて生き抜いてきた渡辺はま子。彼女の真価が発揮されたのは、モンテンルパの囚人との交流においてであった。



取材を終えて

“渡辺はま子”といっても、平成生まれの世代にはもうピンとこないかもしれない。しかし彼女は、その美貌と歌声で戦前から戦後にかけて「昭和の歌姫」ともいうべき活躍をなしたのである。

たくましい行動力と、弱者を見捨てることができぬ義侠心を持ち、明治・大正・昭和・平成の四つの時代を生き抜いたはま子は、ときに濃密な異国情緒を、ときに無実の罪にとらわれた異国の虜囚の涙を、天賦の歌唱で表して人々を魅了した。
 


晩年のはま子
(『あゝ忘られぬ胡弓の音』より)


彼女が世を去ったのは1999(平成11)年12月31日のことであった。
横浜に生まれたから「はま子」と名づけられたという彼女は、人生の終焉を迎えたのも横浜であった。彼女と横浜の繋がりは、他の誰よりも深いといえるだろうか。

彼女の人生をたどると、収容所にみずから飛び込むことにも見られる強烈な“意志の力”を随所に感じる。モンテンルパでの出来事は、彼女の人生最大のドラマであった。

後編では、はま子とモンテンルパについてとり上げたい。


─終わり─


参考文献
『モンテンルパの夜はふけて』中田整一(NHK出版)
『あゝ忘られぬ胡弓の音』渡辺はま子(戦誌刊行会)


<取材協力>
横浜学園高等学校
住所/神奈川県横浜市磯子区岡村2-4-1
TEL/045-751-6941
FAX/045-761-7956

美奈登鮨
住所/横浜市中区本牧三之谷18-8
電話/045-621-3710(代)
FAX/045-624-3914
 

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  • 大阪心斎橋にある三木楽器が改装中とのこと。エレクトーンレッスンで少しお世話になったこともあってDMが送られてきた。その中に三木グランドピアノを弾く戦前の大スター・渡辺浜子という写真とキャプションを見ました。私の1900年生まれの祖父と10歳違いだというその姿にどんな方なのか大変興味を持ちました。戦前、戦後を知る上で欠かせない方でもあると思いました。平成30年のリニューアルオープンも楽しみですが、歴史を語り継ぐはずの文化財「開成館」や貴重な写真をもっと拝見したいと強く思いました。

  • ボクもハマッコ。姉が横浜学園に通っていがその頃よく渡辺はま子の名前を口にしていたので、てっきり横浜学園出身だと思っていた。モンテンルパの夜は更けては、今日も更け行くの歌とともに僕の記憶にしみこむ歌だ。場所も歌手も違うが、いずれも、虜囚の悲しみを歌った歌でボクにとっては名曲中の名曲である。

  • 昭和6年生まれの83歳の父親が言うには現役の頃『会社の行き返りに何度か小田急相模原駅で姿を見かけた』と言っておりました事を思い出しました。

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